見出し画像

雲南日本商工会通信2021年8月号「編集後記」

 いちおう私はデザインの仕事をやっていますが、その中で肝に銘じていることがあります。それは、「顧客の金を使って自分の作品を作るな」ということです。もし「作品」を作りたいなら自分の金で作ればいいのです。つまりデザインとは、デザイナーの個性を発現させる仕事というより、顧客の夢をビジュアライズさせる仕事であるべきだと考えます。
 その意味で、国立競技場設計コンペのザハ・ハディド案を見たとき、すこし憤りを感じました。曲線を使ったダイナミックな建築案は、まさにザハらしい美しくテクニカルなデザインです。しかしそれは同時に「顧客の金を使って自分の作品を作る」ものでもありました。
 一個人のセンスが大きな存在感を持って屹立することで、そこに住む人々の意識や環境を改善させることがあります。ザハの建築はその意味で素晴らしい効用があります。だから文化砂漠の地だったり、発展の象徴にしたい意図を持つ新興国で作られるものとしては適切でしょう。しかし、文化的文脈に溢れた土地や成熟国にとっては、決して最適な選択肢とは言えないと私は思うのです(たとえ採用するにしても、既存文脈との響き合いが求められるでしょう)。
 先日、隈研吾が手掛けた国立競技場を間近で見ました。建築物が低いため威圧感がなく、むしろ埋没していると言っていいほど。しかしその控え目さには、周辺環境への尊重を感じさせるものがあり、成熟国としての日本の方向性を指し示しているように思えました。
 ところで、コロナと混乱とすったもんだの中、オリンピック開会式が開催されました。演出内容は、その貧弱さに非難が集まりがちでした。
 ゴージャスな大会、または国威発揚となる大会を希望する人にとって、今回の開会式は圧倒的にしょぼいし、ビートたけしのような往年のイケイケ世代が「税金返せ」と言うのもうなずけます。そして来年の北京五輪では、東京五輪をあざ笑うかのように数万、いや数十万のドローンが会場を飛ぶことでしょう。
 「ナショナリズム増幅装置」にも見えるオリンピックですが、しかし、そもそもの理念を踏まえれば、経済力や技術力、あるいは文化力で自国を誇り、他国に対してマウントを取る一方、自国内のナショナリズムを煽る大会というのは、新興国だけに許されるバカげた行為ではないでしょうか。
 開会式の演出を見て、オリンピック本来の理念がなんとなく伝わりました。私になりに解釈すれば、「(便宜上、いまは主に国単位でやっているが、理想は)国を超えて様々な人が技を競い、それを通じて全人類のつながりを再確認し、励まし合う集い」です。だとすれば、今回の演出には足りないところが多々あったとはいえ、自国の経済・技術・文化を過度にマウントすることもなく、理念の表現に専念した、成熟国に相応しい開会式演出だったといえるのではないでしょうか。少なくとも、分断が急速に進む今の世界を憂う人々にとっては、決して罵倒されるほどのダメ演出ではなかったと感じるのです。
 ちなみに、老母が結婚したのは東京オリンピック開催の年でした。あれから57年……。意外にも母は、前回だけでなく今回の演出にも満足しているようでした。「あの時は25歳だったのね。今はすっかりおばあさんだけどね」と言ったので、「なんかさ。日本と共に青春を過ごし、日本と共に老いていく感じだな。自分と国がシンクロしてるようで、気持ちよくない?」と言ったら、「うん、気持ちいい」と即答したので、思わず笑ってしまいました。
 続いて思いました。母はそれでいいけれど、今の若い子たちからしたらたまったものではありません。若い時分から、葬式前みたいな雰囲気の社会で生きていくのってどんな気分なんでしょう……。
 否。おそらく、我々世代よりも弱者に配慮できる世代になりやすい傾向があるのではないかと想像します。つまり、オリンピックの「together」の精神です。若い世代の力を通じ、日本が衰退国ではなく成熟国になることを願ってやみません。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?