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中島敦『文字禍』:感想と考えたこと

小学生の頃、原稿用紙にむかって漢字の書き取りをやっていると、文字が急に読めなくなるような、妙な気分になったことがあった。正式にはゲシュタルト崩壊というらしいが、文字に意味を与えるもの、つまり文字の霊というものはハッキリ見ようとすれば、たちまち姿を消して見えなくなってしまうらしい。この文字が持つ不思議な性質についての小説が、この「文字禍」である。

中島敦はいうまでもなく知識人である、父の影響で幼少の時から漢文に親しみ、成長するにつれ西洋の哲学者たちの思想をも吸収した彼は、同時代人の誰よりも、この文字の霊に親しんできたはずだ。そのような経歴を持ちながら、読書について少し疑って考え、このような短編を書くあたり、やはり博覧強記だけでなはない、彼の思想家としての非凡さを伺うことができる。

今でこそ、現代人はネットに夢中で活字に親しまなくなったと嘆かれるが、古代ギリシャでは、近頃の人間は本ばかり読んで現実に目を向けようとはしない批判されていたそうだ(プラトンだったと思うが、要確認)。文字というのはそれ自体には意味はない、どんなにに正当な論理であっても、突き詰めて考えて行くと、その意味するところは虚無の中に分解されてしまう。

例えば、「なぜ物は地面に向かって落ちるのか」、という質問があったとしよう、現代人は「万有引力があるからだ」と答えるだろうが、それでは(究極的な意味では)答えにならない、なぜなら「なぜ万有引力があるのか」「万有引力があるとなぜ物が下に落ちるのか」という問いが生まれるからである。同様になぜ「なぜ私は私なのか」「1+1はなぜ2になるのか」などの根本的な問いも、結局のところ「なぜ」を繰り返すと意味を失ってしまう。

可愛い彼女も突き詰めて考えればタンパク質の塊であり、『カラマーゾフの兄弟』も数十万の文字の連続に過ぎない、エリザベス女王の王冠のダイヤモンドも鉛筆の芯と同じ炭素であり、モナリザは布と絵の具の集合体だ。結局のところある程度の共通了解に元に我々は世界を構築しているのであり、その基盤は問うてはいけない「文字の霊」の住処なのだ。

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