聖書と同性の性行為についての考察


◆創世記2章 エバの創造について

アダム(人)は両性具有だったのか。

男・女という名称は、女(エバ)が造られた後にできたと思われるが、それは名称である。アダムは動物たちがみな番いなのを見て、雄や雌といった概念は持っていただろうし、自分には番いがいないことを感じていただろう。少なくとも人(アダム)から抜き取った一部(側面)から女は生まれたのであり、人(アダム)の方は名称や生命体としての変化はない。

神はアダムの"あばら骨"(tsela)を一つ抜き、それを用いて女を作ったとあるが、tselaは聖書の他の箇所では主体の「側面」という意味で訳されており、あばら骨は伝統的な解釈による訳語である。つまり、アダムという主体の側面がエバとなったという抽象的な意味である。切り取られた身体の側面と言えばどこだろう?と悩み考えた古代の聖書翻訳者たちは、これをあばら骨だ思いついた。しかし、それが本当にあばら骨だったかどうかは書かれていないので分からない。神はアダムの側面を切り取り、その穴を塞ぎ、切り取られた側面が女となったのである。中世の一部の絵画にあるように、アダムの身体の側面からニョキニョキ出てきたわけではない。

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◆第一コリント11:8,9
ここでは、『男が女から出て来たのではなく、女が男から出て来た』ことが示されており、アダムの両性具有説とは整合しない。


◆レビ記
レビ18:22 女と寝るように男と寝てはならない。
レビ20:13 人(男)が女と寝るように男と寝てはならない。両者とも処刑される。

「女と寝るように」とは、女性の陰部に性器を挿入するように、男性の肛門に性器を挿入することの隠喩表現と思われる。モーセの律法は同性の性行為を否定していると思われる。とはいえ、キリストによりモーセの律法は廃されている。しかし、だからとってこの掟の主旨が変更されているとは断定できない。第一テモテ1:9,10を参照。


◆申命記23:18,19
『神殿娼婦、神殿男娼になってはならない。主の神殿に娼婦・男娼の稼ぎを持ち込んではならない』。
ここは、男娼や娼婦、つまり売春行為をする者たちを神殿で働かせてはならないということであり、同性の性行為と直接的関係はないと思われる。


◆創世記18-19章 ソドムとゴモラの滅び
ソドムとゴモラの人々が裁かれた原因が同性の性行為である、と聖書にはっきりと書かれているわけではない。しかし、町の男たちが男(天使)たちと寝ることを求めたのは事実としてある。ほとんどの場合、ソドムとゴモラは神の裁きによる国家の滅びの象徴として登場する。

申命記29:22 イスラエル
申命記32:32 イスラエルの敵
イザヤ1:9,10(ローマ9:29引用) エルサレム
イザヤ3:9 エルサレム
イザヤ13:19 バビロン
エレミヤ23:14 南北イスラエル
エレミヤ49:18 エドム
エレミヤ50:40 バビロン
哀歌4:6 エルサレム
エゼキエル16:44-63 姉はサマリア(北イスラエル)、妹はソドム(南ユダ)
アモス4:11 イスラエル
ゼパニヤ2:9 モアブとアンモン
マタイ10:15 イスラエルの町
マタイ11:23,24 カペルナウム
ルカ10:12 イスラエルの町
ルカ17:28-30 エルサレム(または終末)

第二ペテロ2:6-8
ソドムとゴモラの人々の罪は「無法者たちの放蕩な(アセルゲイア)振る舞い」、「不法な行為」と述べるに留まる。

ユダ1:7
「甚だしい淫行」(エク(強調)+ポルネウロー(淫行))、「異なる肉」(サルコス(肉)+ヘテラス(異なる))。

「天使たちと同様に…」とある。天使たちは自分の居場所を保たず、人間の女性という天使とは異なる肉に情欲を抱いて処罰を受けたのだから、ユダ1:7におけるソドムとゴモラの”異なる肉への甚だしい淫行”は天使たちに対する非自然的な欲情のことか。しかし、彼らが天使と知ってそれをしたかは不明であり、男たちが外部から来た男(天使)たちを求めたのは事実であるから、同性の性行為を暗に否定していないとは限らない。しかし、男同士ならば「異なる肉」ではなく「同じ肉」となるから、やはりここは天使への欲情という意味と取るのが妥当か。


◆ローマ1:26-27
女性の「自然な用い方」(プシコス(自然)+クレーシス(用い方))

パウロは男女の性行為は「自然」であるが、女性同士、男性同士の性行為は「反自然」であり、「みっともない」(アスケーモスネー:ア(否定)+スケーマ(形))と述べている。彼は、異邦人の男女は、偶像崇拝という創造者でなく被造物を崇拝するという反自然的な行為を為した故に、このような反自然的な性行為に燃え盛るようになったと述べている。パウロの主旨は、ユダヤ人も異邦人も共に神に断罪されており、業により全き義人となれる者は誰もいないということである。

※パウロが述べる自然は、あくまで人間としての自然(神が本来意図した状態)であり、他の多種多様な生物における性の多様性を否定するものではないと思われる。



ガラテア3:28 「男も女もない」
第一コリント11:11 「主にあっては、女は男なしではなく、男も女なしではない」

物質的な社会秩序(ガラテア書ではこれは律法による社会秩序を指している)としては男女の役割分担が必要(コリント書によれば教会内でもこの区別は必要とする)だが、救いに関しては男女に分け隔てはない。さらに両者(一切)を創造したのは神だから、性差に存在論的な差別はない(平等である)、とする。この「一切」の中に性的マイノリティの人々も含まれるのは当然である。


◆第一コリント6:9
一般訳「男娼となる者」
原意「柔弱な者」(マラコス)
マラコス…柔らかい。人間的に柔らかい(柔弱な、軟弱な)、男らしくない(女々しい)、同性愛における女性役の

一般訳「男色する者」
原意「男と床になる者」
アルセノコイテース…アルセーン(男性の)+コイテー(寝床)、男と床になる者

マラコスは男娼の意味ではない可能性が高い。軟弱でしっかりしていない様を指す。男性なのに女性的な格好や振る舞いをすること全般を指すかもしれない。アルセノコイテースは、律法(レビ18:22、20:13)が禁じていたものに相当する、男が男と寝ること(つまり同性の性行為)を指すと考えるのは妥当である。
パウロはこれらに類する事柄を行なう者は神の国を継承しないと述べている。とはいえ、この悪徳の一覧表には、淫行、偶像礼拝、姦淫(不倫)、泥棒、貪欲、酔っ払い、誹謗、略奪、なども同列に置かれている。(さらに類似の聖句であるガラテア5:19-21も引用すれば、汚れ、放蕩、魔術、敵対、争い、やっかみ、腹立ち、利己心、分裂、分派、ねたみ、馬鹿騒ぎ、ほか類似の事柄も同列に置かれている)。このことを意識せずにこの項目だけをことさら糾弾するべきではない。


◆第一テモテ1:9,10
アルセノコイテース…男と床になる者(第一コリント6:9)と同様。

律法はこのような「健全な教えに反する」者たちのために与えられた。『律法を律法にふさわしく用いるなら律法は良いもの』である。つまり、律法主義はいけないが、このような行為を断罪するのはふさわしい、という意味にもとれる。

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