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正義を体現する者



哲学者たるもの身をもって範を垂れよといったのはだれであったか。正しさとは説くのではない、体現せよと。

正義の体現者といえばまず警察が浮かびますが、犯罪者の検挙が正義の具現化であるとすれば、正義のためには罪が必要となる。これを善悪に置き換えれば、善のためには悪が必要である、となりますが、「世界の警察」(今は昔ですが)たる彼の国に尋ねてみればわかり良いでしょうか。

2001年のアフガニスタン侵攻の契機となったのは同年9月11日の同時多発テロでありますし、2003年のイラク戦争であれば大量破壊兵器を隠し持つとされた悪の枢軸国、また太平洋戦争は「ジャップ」による真珠湾攻撃という奇襲に端を発したのであり、米西戦争のときはメリー号事件が、そういえばベトナム戦争ではトンキン湾事件なんてのもありました。

悪は善に先立つ。悪がまずあり、これを糾弾することで己が善性を味わう。犯罪に対してと同様に、いじめや差別、躾と称する虐待に対しても、またあらゆるイデオロギーに対しても、悪とは相容れないものであり、自分たちこそが善であるという意味において、正義とは排他的にならざるをえないのでしょう。

善とは畢竟、独善でありましょうが、独善とは無謬の異名であり、まったき自己肯定感を与えてくれるものです。ゆえに人は快を求めるがごとく、善を求めるのかも知れません。
独善であっても、己の正義を求めるのかも知れません。





十数時間前、アメリカ東部ペンシルベニア州での選挙集会でトランプ前大統領が演説中に銃撃されましたが、氏は右耳を負傷、参加者1人が死亡、2人が重傷、会場の外から発砲した容疑者は警護側に射殺されたということです。

全容は不明ですが、容疑者を射殺した当局は己の正義を体現したのだといえるとしたら、銃撃後に中指を立ててテロに抗議した参加者にも同じことがいえるでしょうし、握った拳を高く掲げ、暴力に屈しない姿勢を見せ会場を後にしたトランプ氏にもいえるでしょう。
しかし容疑者もまた己の正義を体現したのだといえましょう。若い男性のようですが、彼にとって標的は「悪」だったに違いありません。





正義とは相対的なものであるといえばそれまでのことですが、だからこそ情報を受け取る側は己の立ち位置というものに自覚的であらねばなりますまい。毀誉褒貶ある政治家の暗殺未遂事件です。未遂であることに落胆している向きもあるでしょう。ちょうど二年前、日本でもテロ事件がありましたが、殺されてかえって良かったとテロを容認した文学者アホがいたように、ひとは信じたいものを信じる。Xなどでは自作自演という「陰謀論」も出回っているらしい。そういった言説もまた、誰かにとっては正義であることを鑑みるに、正義とは疑わしいものでありますが、疑いえぬところまで疑い抜けば、その本質は生存でありましょう。

正義とはまず生存であり、生存はつねに正義である。命あっての物種であり、ゆえに正義を体現する者はみな、自分と同じように命がけである、と気づけば、「悪」との共存ということも考えられるはずではないでしょうか。また曲がりにも民主主義を支持しているのであればテロなど容認できるわけもない。

上述の文学者がアホである所以は、安全地帯からうすっぺらの正義を振りかざしたことにありますが、民主主義の根底は法の支配であることも理解できぬとあってはアホ以下である。意見は異なれども、命をかけている者に対しては敬意を欠いてはならぬと自戒を込めて述べ、終わりといたします。
お読みくださり、ありがとうございました。




忘れられぬ人が銃で撃たれ倒れ
みんな泣いたあとで誰を忘れ去ったの

『最後のニュース』
井上陽水