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エッセイ:持続するもの

数ヶ月前、高齢者は国のために集団自殺しろと言って炎上したコメンテーターがありましたが、他者に自己犠牲を求めることの賛否はさて置き、剥き出しの表現に稚気を感じる。自己犠牲といえば、あるジャーナリストが「祖国のために戦えますか」と投稿し炎上したらしいが、ネットニュースのコメント欄はおおむね、他国に侵略され国内が戦場になればという前提で捉えており、「私」も戦うという意見が多いようです。
「私たち」の共同体のために「私」の死を選ぶ高齢者というと深沢七郎の『楢山節考』が浮かぶし、柳田國男に『山に埋もれたる人生あること』という食べる物がなく餓死する前に自らを殺してくれと父親に乞う子供の話がある。自己犠牲の精神は今も「私たち」の奥底に残っている、が故に上述のコメンテーターはあんなことを言ったのかも知れません。
先の大戦の戦没者は「祖国のために戦」って亡くなられたわけですが、しかし自ら死を選ぶ作戦で散った特攻隊の方々の死を自己犠牲ではなく「犬死に」と捉える向きもあるようです。色々な意見があっていい。個人の意見は尊重されるべきですが、集団として正しい決断をしなければならない時がいずれ来るかも知れない、という想像力がこの国にはないのでしょう。政治資金パーティーだの派閥だのどーでもえーとは申しませんが、与党があれなら野党もあれやしメディアもあんなやしなあ。そら政治に期待せんちゅう人の気持ちもわかりますよ。何が申し上げたいかというと、内向きの議論も結構だけど、外も見ようぜと。中東でのこともウクライナのことも米大統領選も、核を持つ複数の隣国のことも他人事ではありません。

いかなる事象も万象のうちにあるように、「私たち」も世界のうちにあり、他者との関係性のうちにあります。関係性とは不変で強固な構造ではなく、因があって果がある、因果であり、海面に生起する波の如く常に移ろう、あらゆる事象は畢竟無常であり、繋がっております。
「私たち」という集団を構成している内なる要素も同様、無常であり、過去と繋がり、成員は入れ替わり、紐帯となる価値観も時代と共に移ろいますが、かつて有り、今も有り、有り続けるということ、生存の持続は、持続している限りにおいて「正しい」。これまでもそうであったように、個々の「私」が生まれ、老い、死んでいっても、また生まれ、連綿と続いていく。続いていく限りにおいて不変である。不変であり、自ずと有る。

時間とは持続であるといいますが、私たちは持続しており、持続そのものであるが故に時間を直接認識できません。しかし「私」が死んでも、また新たに「私」が生まれ、私たちは断滅せず続いていくであろうと、この持続を信じることはできる。信じるなどと聞くと途端に宗教やんとアレルギー反応を起こす方がいらっしゃるが、そういう方はご自身の生活を支えている習慣を思い起こしてみていただきたい。その自明性は何処から来るのかと。

以上、締まりの無いことを書き連ねて参りました。今日は節分です。かといって特に何もしませんが、皆様の無病息災をお祈り致します。
お読み頂きありがとうございました。



歴史というものを眺めて兎や角言う自分という様なものを考えるのは誤りである。僕等には歴史を模倣する事以外に何も出来る筈はない。刻々に変る歴史の流れを、虚心に受け納れて、その歴史のなかに已れの顔を見るというのが正しいのである。

 『文学と自分』小林秀雄