エッセイ:かかる暮らしの味気無さ
ビートたけしが震災を偲んで、二万人が死んだ事件があったのではない、一人が死んだ事件が二万件あったのだといったのは、今から十年ほど前でしょうか。他者の死を理解するには想像力が必要であると。
死とは畢竟、この私の死であり、この私はそれを知ることができません。理解し、知ることができるのは他者の死だけであり、故に人は己の死を重ね合わせ、他者の死を悼むのでしょう。悼むことでその死を感じ、味わう。共感は想像力から生まれる。
小林秀雄に子をなくした母親の喩えがありますが、掛け替えのない子をなくした悲しみは彼女にとっての「歴史」であるという。
「歴史」とは感じるものであり、死者の生きた場所でもある。時を経て、同じ場所に生きる私たちを私たちたらしめる根であり、掛け替えのないものであります。歴史に思いを馳せ、感じるのもまた想像力のなせるわざでしょうが、情報過多の現代に暮らす、せわしい私たちにとって歴史もただの「情報」でしかないのだとしたら、味気無い。
想像力の欠如とは、子をなくした母親はあなただけではない、だからあなたは一人ではないと慰める、無味乾燥の、歴史のないありよう、根無し草のありようとでもいうものであって、掛け替えのない歴史と共にある、唯一無二のあなたを認めない。
彼女は「子をなくした母親」の一人ではなく、子をなくした一人の母親であり、彼女にとって歴史とは、なくした、掛け替えのない子どもであると小林はいいます。その実感であると。
人があるから歴史がある。
歴史があるゆえ今ここに、私たちがあり、今日という日があり、また今日も今日とて、掛け替えのない一日であります。
今日という一日が、皆様にとって善き日となりますように。
そして歴史と共にあらんことを。
この私は、いずれ暮らしの果てに散る
そうして場所は残り、続いていく