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生麦・生米・生卵

わたしは談話室の窓際に座り、ぼんやり外を眺めていた。窓からの景色は、巨大な屏風絵のようだ。屛風絵の中央には、八幡竈門神社が鎮座している。このあたりは、温泉地の喧騒から隔絶されている。鉄輪温泉の湯けむりも山にさえぎられ見えない。
手術は今日の13時からだ。「今からそっちに向かう」と夫からLINEがあった。
入院病棟は患者とスタッフ以外、病室に入ることができない。面会のときは、患者本人がエレベーターホール前の談話室に出向く。手術の付き添いも同じである。わたしは夫が病院に到着するのを、談話室で待っていた。

入院病棟は携帯電話の電波が入る。以前は携帯電話を操作することも病院では禁止されていたが、今は「大声での通話は控えましょう」程度だ。医療現場の常識はどんどん変わっていく。
昨夜、夫は夜中の12時近くまでわたしにLINEを送ってきていた。よほどさみしかったのだろう。しばらく相手をしていたわたしだったが、いつの間にか眠っていた。朝起きるとLINEからこんな通知が来ていた。
「このユーザーのメッセージを非表示にしますか?」
一方的にメッセージを送り続ける夫を、LINE側がストーカーか何かと認識したようだ。LINEにこのような機能があることを初めて知った。
マメに連絡をくれる男性は安心感がある。わたしが夫とうまくやれている要因のひとつだ。だが連絡をくれない男性のほうが、女性は夢中になる。ぞんざいに扱われるドキドキ感が、夫にはない。

(たまには連絡が来なくてソワソワしたいな…)

人間は無いものねだりである。

時計の針は9時をさしていた。午前中に手術を受ける人が手術室に入る頃だろうか。この期に及んでも、手術の恐怖心が湧いてこない。わたしのガンは「浸潤癌かもしれない」と言われてはいるが、命を脅かす可能性は低い。のんびりしていられるのはそのためだろう。
(腹減ったな…)
窓の外を眺めながら、わたしはそんなことばかり考えていた。八幡竈門神社の境内から、のりおちゃんがこっちを見ている気がした。談話室の窓越しから、わたしは神社に向かって手を合わせた。
夫が談話室に到着した。夫の方が不安げな顔をしている。
母も今日の手術に付き添いたいと言っていた。しかし別府病院では、手術の付き添いは1人だけと決まっている。入院中の面会も15分以内だ。コロナ対策のためである。大阪からわざわざ来たって、わたしの顔を見ることができる時間はごくわずかだ。
母には事情を説明し、実家で待機してもらうことにした。手術が終わったら、夫が母に電話をかけることになっている。

そうこうしているうちに、とうとう“その時”がやってきた。
「菊池さ~ん」
背後から声がして、わたしは振り返った。声をかけたのは大谷先生だった。先生は、エレベーターホールの奥にある「関係者以外立ち入り禁止」と書かれた大きな扉の奥に、しずしずと歩いていった。手術室に向かうのだろう。
看護師さんがわたしのもとに来た。患者も自分で歩いて手術室に移動するそうだ。可動式のベッドに乗せられて手術室に入る光景を想像していた。医療ドラマなんかにありがちなシーンである。歩けるんだから歩いて行くわな。そりゃそうだ。
わたしはいったん病室にもどり、手術着に着替えた。昨日、採寸した着圧ソックスも着用する。着圧ソックスは白色で、ひざ下ぐらいの長さだ。ダボっとした手術着に白いハイソックスを合わせると“ドリフの合唱隊”っぽい。

(〽 生麦・生米・生卵 ワオ!)

脳内再生が止まらない。お気楽な女である。わたしはマスクの下でニヤニヤ笑いながら、看護師さんに連れられ手術室に移動した。
大谷先生が消えていった扉の奥に、手術室に通じるエレベーターがある。わたしはホッとした。ドリフの合唱隊の格好で、一般のエレベーターに乗るのはちょっと恥ずかしかったのだ。

手術室に入ったわたしは、手術台に上がり仰向けになった。あいみょんの「マリーゴールド」が室内に流れている。

浜田省吾とか佐野元春とか、あの頃の雰囲気があいみょんにはあるように思う。あんま聞いたことなかったけど、退院したら聞いてみようかな。わたしは手術台の上でもそんなことばかり考えていた。
スモッグみたいな服を着た大谷先生が、手術台の横に立っていた。昨日、来て下さった麻酔科の先生もいた。麻酔科の先生の隣には、若い男性医師がいる。研修医だろうか。
全身麻酔はまず点滴で患者を眠らせてから、麻酔と空気の管を気管に入れる。若い男性医師が、わたしの左手の甲に点滴の針を刺した。
(このまま記憶を失って、目覚めたときには右のおっぱいが無くなっとんのか…)
切ない気持ちをわたしは噛みしめていた。しかし、針を刺されている左手がなんだか痛い。若い男性医師が言った。
「あの…膨らんできちゃったんですけど」
点滴の針がうまく血管に刺さらなかったようだ。その様子を見た麻酔科の先生は「チッ」と舌打ちをした。新人さんに舌打ちはやめてあげて。
ひったくるように点滴の針を取り上げた麻酔科の先生は、無言でわたしの手の甲に針を刺した。
(痛ッ!?!?)
「チクッとしますよ~」とか普通は言わん?ぶっきらぼう過ぎるやろ。わたしはちょっと笑ってしまった。
麻酔の眠りに沈んでいく瞬間、わたしは麻酔科の先生にツボっていた。半生を走馬灯のように振り返ることもなく。

目を開けると、「あっ!目が開いた」という女性の声が聞こえた。
わたしは過去に一度、全身麻酔で手術をしたことがある。親知らずを抜くためだった。その時は、目が覚めると顔全体が腫れてズキズキしたのを覚えている。今回は、頭がぼんやりするだけで痛みは特に感じない。
(楽勝やんけ)
わたしは思った。ベッドに寝かされたまま、手術室を出る。心配そうな顔の夫がわたしを覗き込んだ。
「よく頑張ったな」
夫の声が聞こえたのはその一言だけだった。わたしはすぐにエレベーターに乗せられ、病室に移動した。両足に圧迫装置が装着され、腕には点滴が付いている。点滴の中身は抗生剤だろうか。

病室に戻ってしばらくすると、強い吐き気が襲ってきた。夕方の回診にきた大谷先生に「胃がむかむかする」と伝えると、吐き気止めを点滴に入れてくれた。吐き気はすぐに治まった。
今夜は仰向けのまま、ほとんど身動きできない状態で一晩を過ごす。これが結構キツイのだ。排尿用のチューブが特につらい。おしっこが出切っていないような不快感が一晩中つづく。圧迫装置のシューッという音も気になった。

圧迫装置は、エアバッグのような袋が膨らんだりしぼんだりする仕組みだ。温泉なんかにある脚用マッサージ器みたいなのを想像していたが、あんなにギューギュー押す感じは無い。一晩中装着するにはマッサージ器の締め付けはきつすぎるのかもしれない。
胸の周りには「バストバンド」と呼ばれる、コルセットのようなものが巻かれている。手術した場所に血が溜まらないよう圧迫するためだ。

切ったと思われる部分から、溜まった血を抜くためのドレーンが出ていた。ドレーンの先にはシリコン製の丸い容器がついている。この容器に血やリンパ液が溜まる。血が溜まったら、定期的に容器の中身を捨てる。リンパ液を溜める容器は、邪魔にならないよう普段はポシェットに入れておくよう、看護師さんから言われた。旅館で浴衣についてくる貴重品を入れるためのポーチみたいなヤツだ。誰かの手作りだろうか。ちょっとかわいい。

翌朝の回診のとき、大谷先生はバストバンドを外し、ガーゼを交換した。わたしは思わず胸元から目を逸らした。まだ傷跡を見る勇気はなかった。
大谷先生は折りたたんだガーゼの束を傷に当てて、バストバンドをぎゅっと締めた。ガーゼは傷口の衛生のためというより、圧迫して止血するために挟むようだ。
回診の後で、点滴と排尿用のチューブ、脚の圧迫装置が取り外された。足のむくみを解消するストレッチを看護師さんと一緒に行い、その後で着圧ソックスを脱いだ。手術の装備はこれで全部外れた。はれて自由の身である。

早くも昼食の時間になっていた。わたしのもとにも昼食が運ばれてきた。食事は減塩の普通食である。おかゆや流動食ではない。わたしはものすごい勢いで食事を平らげた。お腹がすいていたのだ。食後、わたしは自分でお膳をワゴンに片づけに行った。
「あら?ごはんまだ来てないの?」
わたしの様子を見に来た看護師さんがたずねた。わたしは答えた。
「・・・もう食べちゃいました」
看護師さんは大笑いだ。
「食欲があるのはいいことですよ!」

わたしは昼食だけでは物足りず、1階の売店におかしを買いに行った。術後24時間でこの元気である。バストバンドとドレーンが体に付いていること以外、普段となにも変わりがない。
「元気そうだけどどこが悪いの?」
同室の人からそう聞かれるぐらいである。
(これものりおちゃんと八幡様のおかげかな)
わたしは談話室でハッピーターンをボリボリかじりながら、八幡竈門神社のほうに向かって手を合わせた。

温泉好きが高じて20年以上暮らした東京から別府に移住しました。九州の温泉をもっと発掘したいと思っています。応援よろしくお願いします。