ルワンダの悲劇からのサバイバー起業家。「"逆境から立ち上がる人生"のロールモデルになりたい」
信頼のリレー
同じ時代を生まれ合わせて、「あ、ここにいたのか!」と出逢いがとてつもなく人生の励みになる。そんな出逢いがある。
国籍やバックグラウンドも越えて、志に惚れて「心の友」と呼ぶ仲間がいる。
「彼ほど、強くて優しい人を知らない」
そんな「心の友」、ルワンダのIT分野を率先するICT商工会議所代表 Alex Ntale氏から、そう紹介されたのが、SOLVE IT社のCEO、Joseph Semafara氏だった。
(↑Zoom会議にて初対面。下の画面の左がAlex氏、右がJoseph氏。)
ちょうど去年の今頃(2019年3月)、クラウドファンディング展開をお手伝いしていたのが、プログラミングスクール事業を行う株式会社DIVE INTO CODE。
彼らがルワンダ展開するのに組むとしたら、「Josephしかいない!」と紹介されたのが発端だった。
>>当時のクラウドファンディング「アフリカ全土にIT教育と雇用の機会を届けたい!」
Alex曰く、
挑戦するすべての人が、チャンスをつかめる場をつくりたい
という「ビジョンとパッション」が、DIVE INTO CODE社代表の野呂さんとJosephは同じだ、と。
SOLVE IT社は、ルワンダの学生・若者にインターンシップなど実務経験の機会を提供し、就業支援をしている。
プログラミングスキルをただ学ぶので終わるのではなく、"学び"が"仕事"に繋がるように、というチャレンジも、DIVE INTO CODE社と共通する。
実際に、クラウドファンディングの成功とともに2019年7月には、DIVE INTO CODE社の現地のスクールが開校。この事業に、SOLVE IT 社は全面協力して第一期クールが終わるところで、いままさに、DIVE INTO CODE社とジョイントベンチャー設立を目指して協議中である。
「彼は、じつはジェノサイド・サバイバー」
あるとき、現地でのトラブルが発生したときに、Josephとオンラインで緊急ミーティングをしたことがあった。
そのときの、彼の肝の据わり方、ピンチをチャンスに変えようとする心強い姿勢に感動して、そのことをAlexに伝えたときに、冒頭の言葉があった。
「彼ほど、強くて優しい人を知らない。」
そして、「じつは、」と続いて聞いた。
「彼は、ジェノサイドのサバイバーなんだ。かなり過酷な子供時代をくぐり抜けたらしい。」
と。
これを聞いて、私は思わず絶句した。
20世紀最大の悲劇「ルワンダ大虐殺」
思い出されたのは、ルワンダの虐殺記念館「ジェノサイドメモリアル」を訪問したときに目の当たりにした、静かに並べられた、犠牲者の顔写真・遺品の数々。
(↑写真は、2018年撮影の首都キガリ郊外。虐殺記念館の写真は一枚も撮れなかった。)
特に、「根絶」の名のもとに、斧で、ナタで殺された、という幼子たちの遺品。
隣人に、友人に、家族に、、狂気と恐怖が渦巻く中に殺された人々。
「避難」と呼びかけられ逃げ込んだ教会で、スタジアムで、学校で一斉に虐殺された人々。
ときに一晩に4万人以上もの人が殺され、1994年の100日間に、80万〜100万人の人々が亡くなったといわれる「ルワンダ大虐殺」。
ーー
Alex自身も、ウガンダへの難民となり、また帰国した過去があるが、彼にも他の面々にも、なかなか当時のことを聞くことが憚られた。
「その話題をしてもいいよ」と言いつつも、いつも、彼らの目の奥には、深い悲しみを感じざるを得なかったから。
話を聞かせてほしい。私たちのために。
ただ、その後のJosephとのやり取りで、いつも彼の存在がもたらす心強さに感動していた私は、意を決して、彼にお願いした。
「あなたの強さや包容力の根源を聞かせてほしい」
この時代に生まれ合わせ、奇しくもご縁があった彼との出逢いを、私個人のものにしておくのは、何か大事な役目を果たしていない不全感が拭えず。
「あなたのストーリーが、日本をはじめルワンダやアフリカの外にいる私たちにとっても、大事なきっかけになると思う」
と、インタビューと少人数とオンラインで交流する場をつくることを依頼した。
すると、「まさに、それが自分の役目だ」とJosephは快諾してくれた。
※彼自身のストーリーをこのようにまとめて聞き出されたのは初めて、だそう。この第一稿をここに残すことで、私自身が彼と出逢い、彼から受けとったインスピレーションの一端でも伝われば、これほど嬉しいことはない。
「一度、僕は死んだんだ」
Josep Semafara
1992年生まれ、現在28歳のJosephは、ルワンダの首都・キガリから車で1時間ほど東にあるルワマガナ(RWAMAGANA)という町で育った。
16人兄弟の一番末っ子として、Semafara家に生まれ、上には、10人の男兄弟がいた、という。
ジェノサイド当時、2歳という幼子だった彼。
理由は様々だったが、その当時までにすでに5人の兄弟は亡くなっていて、
残り5人の兄弟もこのジェノサイドで両親とともに殺されてしまった。
隣人がナタを振るって一家が惨殺されたとき、じつは、Joseph自身も兄弟たちと共に襲われて、"一度死んだ”らしい。
他の死者らとともに、Josephも”死んでいた”のを片付けられたとき、まさに、掘られた墓穴に入れられる、というときに「まだ息がある!」と発見された。
いまはもう誰だかわからないが、血だらけ、土まみれだった彼を見つけたその人は、彼を洗い、傷の手当てをして、"生かしてくれた"らしい。
ジェノサイドが終わるまで、その人のところで匿われ、文字通り生き延びたJoseph。
その後、他の数多くの孤児と共に、孤児院に預けられることになる。
このとき一度”死んだ”ことで、いま生きているのは”The Second Life”だという彼。奇跡的に永らえたいのちを感謝する、詩集のようなものを書いていて、そのタイトルは”Favor of the Second Life”という。
(↑幼いときのJoseph)
家族を失った後の、孤児院での暮らし
彼が預けられた孤児院「Hameau des jeanne saint Kizito」には、主に5歳から18歳、そして生まれたばかりの赤ん坊から、ときに生活ができずに戻ってきた大人も含めて400人もの孤児が一緒に生活していた。
彼曰く、両親や家族の写真は一枚も残っておらず、その顔を知らない。
そして顔だけでなく、その愛情も知らない、と。
なぜなら孤児院は、家(Home)とは違う。
孤児院での育った15年以上もの間、何時に起きて、何時に食事をして、就寝して、というタイムテーブルはあっても、そこには、親からの眼差し、世話、愛情といったものが全くなかった。
何をしたらいいか、何をしたらダメか、教えてくれる人もおらず
それらを自分は、自分で自分に教えるしかなかった、と。
高校を卒業する18歳になると、孤児院を出なければならなかったが、
彼は勉強に励んだことで、成績優秀者として奨学金を国から得て、大学に入学できることになった。
待っていた第二のサバイバル
しかし、大学の中(=寮)にはすでに部屋の空きがなく、大学の外で借りる部屋を捜さなければならなかった。
「この1年が本当に過酷だった」とJoseph.
家賃が払えず、今日食べるものにも苦労する日々。
生きていくために、いくつものパートタイムの仕事をして、住まいや食べるもの、着るものを何とかする、という生活だった。
「仕事を得るために、何でもやった。」
子供の頃から音楽が好きだったので、路上で音楽を演奏したり、
絵を描いたり、ビデオを撮る仕事など、できることは何でもやった。
(↑孤児院で、ドラムなどを教えていたJoseph)
進学した大学が、ITの学部だったこともあり、ITスキルを身に付けたJosephは、ウェブサイトの制作を請け負う仕事を始めた。
そのころに「やっと生活できるようになった」という。
人に教えるのがうまかったので、自分と同じ若者に、ITスキルを教えて彼らの就業支援をする、今の会社を立ち上げた。就業先の企業から紹介料を得る、人材育成&紹介ビジネスだ。
在学中に登記したものの、本格的にスタートしたのは卒業後だったという。
いまそのSOLVE IT社は、政府にも認められて国外にもPRしてもらえるようになり、カナダの会社とAI人材を育成し就業まで支援する” SHAKA AI”というジョイイントベンチャーを設立するまでになった。
スキルを学んでも、仕事がない、という教育と就業のギャップを埋めるべく、今日もまた邁進している。
(↑地元のTV番組に出演したときのワンシーン)
※前述のように、日本のDIVE INTO CODE社とも、協業を進めている。
ジェノサイド・サバイバー起業家のもう一つの顔
これらの彼の会社のことは知っていたが、今回初めて知ったのが、彼の孤児支援の活動だった。
"いかに孤児が生きていくのが大変か"
その事情も、苦しみも、悔しさも知っていた彼は、孤児院からもドロップアウトして、路上生活をするような孤児を支える活動を、なんと自身が高校生のときに始めていた。
偶然知り合った、アメリカ出身の女学生と寄附を集め、彼女が帰国してからも、米国の有志からの支援を引き出し、7人の生徒を生活から支えている。
(“Peace Family”という活動)
さらに大学入学のために都市に出てくると、地元の田舎と同じように、孤児の子たちが苦しんでいることを知り、彼らを助けるNGO、"Open Hearts Family"を立ち上げる。
今なお、起業の傍ら、このNGOの活動は続けていて、支援を続ける20人の子供たちの内、現在1人は大学生、5人が高校生、14人が小中学校に通っている、という。
どんなに辛い状況であっても、彼らがドラッグなどに溺れたりしないように励まし、見守り、学費や教材、日用品を買う生活費を与えて、支えている。
彼の力の源泉とは?
なぜ、過酷な境遇の中、自身が心折れず生き抜いただけでなく、他の孤児を助けるまでになったのか?
この質問をすると、彼は、「自分の父親の話に遡る」といった。
「父親が一人っ子だった、ということが大きかった」と。
Joseph自身以外、家族がいなくなった、ということは、叔父や叔母のような親戚もおらず、助けてくれる人が本当に誰もいなかった、ということ。
「どう振る舞うべきか、教えてくれる人がおらず、自分で自分に教え込んでいくしかなかった。自分が自分の親にならざるを得なかった」と。
あまりの過酷さに、酒やドラッグの誘惑がいつも側にある境遇だった。
その中でも、それらを遠ざけ、学業に打ち込み、自分を支えられたのは、
自分は家族の「たった一人の生き残り」という自覚だった。
「自分がいなければ、父から自分の代が生まれた家族の系脈が途絶えてしまう。だから、しっかりと生き抜かなければ。」
そう、強い想いがあった。
墓穴から救い出され、生き延びた自分がここまで生き抜いて、孤児や若者をエンパワメントする立場まで成長することができた。
LIFE・・・"人生"、そして"いのち"を取り戻すことができた自分には、役目があるはずだ。
「次は自分の番(my turn)だ」
それは、自分自身には誰もいなかったけど、
【誰かのために、自分が「親のようになること」が新しい使命になった】
ということ。
いま、「夢は何か?」と聞かれたら、「大きな夢を描いてはない」という。
「ただ、real-life example(生きた実例、ロールモデル)として生きたい。」
「自分自身が親となって、子供にとっての父親となり、"家族"を始めたい。」
まだ見ぬ将来の自分の子供だけでなく、
自分と同じ孤児という苦しい境遇にある子供たちに、自分の背中を見せる。
そんな人生を歩むと決めて、確かにそう生きることが、彼自身の支えだったんじゃないか、と何度も言葉に詰まりながら、私は受け止めた。
「どんな境遇であれ、自分の人生を生きる」
言葉でかけば、一行であるこのことが、どれだけ難しいことか。
正直、ここまで5000字近く書き連ねたところで、彼の存在に触れたときに味わう、自分の内側の灯火みたいなものが震わされる感じ。人生への態度の真剣さを思い知らされる感じ。それらが伝わるかどうか甚だ心許ない。
それでも、今回、どうしてもこの記事を書かなければ、と駆られ、彼の人生のテーマであり、次の彼の著作のタイトルでもある「From Zero to Hero」を表題につけさせてもらった。
アフリカのリーダーたちに学ぶ
先日初来日したエチオピアのGetnet。
そして、今回紹介したルワンダのJoseph。
彼らの共通点は「どんな境遇でも、自分の人生を生きる」ロールモデルであることだ。
Getnet、Josephら、アフリカのリーダーたちと共に、
「正解のない世界を生きる。
どんな境遇からも立ち上がり、自らの人生を切り拓き、生きる。
その生き方を共に学ぶ」
これが私のライフワークの一つだな、と思う。
彼らの生き様が、少しでも誰かに届きますように。
【追伸】
VUCA時代*、「いままでの延長線上」が通用せず、何が正解か分からない世界に突入している。
これまで "何が正解か?「ものさし」が分かりやすい世界では、頑張れた人"、というのが次々と迷い、苦しむことが増えてきた。
なぜなら、そういう世界を、しっかりと生きる方法だなんて、学べる場所がなかったから。そういう方法がどれだけ重要か、だなんて知らずにきたから。
そんな「正解のない」世界についての最先端が、たまたまアフリカにあって、そこに生きる類い希な人物が、縁あって目の前にいる。
アフリカだから、とか、VUCA時代だから、とか、あれこれ言わず、すべての人が「自分の人生を生きる」、そのことが当たり前になるように。
私なりの役目を果たしていきたいと思います。
*VUCA... Volatility(変動)、Uncertainty(不確実)、Complexity(複雑)、Ambiguity(曖昧)の頭文字をつなぎ合わせた造語で、あらゆるものを取り巻く環境が複雑性を増し、想定外の事象が次々と発生するため、将来の予測が困難な状態に直面しているという時代認識を表す。
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