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20年ぶりに読んでも難解すぎたのに、2度も不思議体験をもたらした本の話。

2000年代の大半を大学のキャンパスに過ごした。
当時、いくつかThe connecting dots の「The Dot」たる点の記憶があるのだけど、何度も編み直される物語の中でも、変わらず点として屹立する体験がある。

それは、知の巨人・イスラム学者の井筒俊彦著「意識と本質」という本と出会ったときのこと。

私が紹介した(別の)本が、人生を変えるほど衝撃的だった、という人が、お返しに、と紹介してくれたのがこの本。

片手の平に収まる文庫本でありながら、1ページ目から難解すぎて、「分かった」と思える文章が何一つない。西洋と東洋(東洋の一つとっても、極東日本・中国・中東、近東・・と広大)の古代から現代にわたる哲学を縦横無尽する、その知性の厚みに屈服するしかない、そんな一冊だった。

ただ、「わからない」というペンディング状態をずーっと耐える時間の経過の先に、いきなりそれは訪れた。

文字通り、雷に打たれたかのような感覚で、一つのイメージ(みたいなもの)が降ってきたのだ。今、思い返しても「なんだったんだ…」という不思議体験ながら、降りてきたそのイメージは、明らかにその体験以前と以後を分けるものとなった。

当時、立花隆や自立した女性たちに憧れて東大に入ったものの、キャンパスで突きつけられる「見えない壁」に悩んでいた。それは、大きく言えば「人類進化」という同じ目的のために切磋琢磨する場所、というイメージだった大学のリアルへの勝手な失望。切磋琢磨どころか、サイロ化、タコツボ化して、さらにあれは(机上の"空"論)理論しかやらない、現場しかやらない、と互いにほんのりと蔑み合う空気を知ってしまったところに端を発していた。

今、だいぶ市民権を得たワード「サステナビリティ」にであったのもその頃で、それぞれのサイロの中に居座る人々を、一つのラウンドテーブルに着かせるチカラに一縷の望みを見出そうとしていた。

どうやっても話が通じない、別々の世界に生きる人が、同居し同じ空気を吸っているかのように直感することが多かった当時、先の雷的なイメージを突きつけてきたのが、本著だった。

誤解を恐れず言えば、たった一つのそのイメージで「世界を分断する壁の乗り越え方」「世界や宇宙やいのちの成り立ち」をつなげてしまう衝撃だった。

それは、生半可な勢いで言葉にするとオカルト的に雑に扱われてしまうので、あえて詳解しないが、太陽系と同じ同心円を連ねたとてもシンプルなものだった。

今振り返っても、そのイメージが私の中でありとあらゆる疑問を昇華して結実したあの不思議体験が、その後、今日に至る20年を支えてくれたと言っても過言ではない。

そして、20年後の今日、起きた話。


移住先のカナダでは、ちょうどサマータイムが終了して冬時間が始まり、1時間の寝坊がチャラになった。

家族でバンクーバーに来てこの最初の3ヶ月の特徴の一つといえば、物理的な「本」のない生活だったことだ。今年11月1日に解禁されるまでEMSもストップされていて、カナダに物を送るというのは至難の技。仕方なく実家に送り返されていたのだが、そこで10月の一時帰国から、嬉々としてその蔵書の一部をカナダに持ち帰った。その貴重な数十冊の中にあったのが、本著だった。

なぜか、わざわざいつも持ち歩く本を差し置いて、本著を引っ張り出してから、いつものカフェへ。

そして20年前と同じく、あまりの難解さに思考停止。

しばらく、目につく文章をなぞっては読解を諦め、なぞっては「分かる」ことを手放していたところ、驚きの体験がまた襲ってきた。

この数年力を入れて磨いてきたバイタリティ・アプローチと名づけたものの真髄が、「あーーー、ここにもう書かれていた」という感じで、そこにただ在った。

てんで読解できていない本が、こんなにも人生に2度も啓示みたいな身震いをもたらすなんて、私自身「何これ?!」としかいえない不思議体験がすぎる。

しかも「巨人の肩に立つ」というが、その知の巨人の文字通り「圧倒的な巨大さ」に、肩どころか踵に触れたくらいにしか思えない。

そんなことを思う今回の再読だったが、もう一つ驚くべきことは、自身の相変わらずの「分からなさ」や巨人への畏怖の中に、"卑屈さ"は全く起きなかったことだった。

むしろ、私を私たらしめている"本質"への誇りや感謝が湧き上がる体験だった。

私を私たらしめている"本質" その一つは、「現実が動かないと罪」とまで、口だけのことを忌み嫌う性分ながら、「抽象化・理論化しない行き当たりばったり」にも憤慨する理不尽さ。旧友からも「人に怒る、というより概念に怒る人だよね(相変わらず)」と有難いフィードバックをもらったばかり。

それでも、一人の人間のN=1の切り取られた出来事の中にすら、世界を前進させる知恵が宿っている、と諦めない信じる力が、「私の根幹」に繋がっている。

私を私たらしめてきた"本質"の輪郭の一部。それに触れ、思い出すだけでも、胸が熱くなるような幸福感があった。

脳天を撃ち抜かれるかのような衝撃と、「何これ!?」と当惑しながらも味わうこの感じ。生乾きながらも、何とか真空パックできないか、と筆をとったのが今。

「また、よくわからないもの書いて」という友人の苦笑が目に浮かぶようだけど、勢いのまま、残したいと思う。


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