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わたしとひいばぁちゃんの小さな思い出

私が生まれてから、
私のひいおばあちゃんはまだ生きていた。

私といくつ違うのかなんてわからなかったけど、私の家ではひいおばあちゃんのことを「おおきいおばあちゃん」と言っていた。

周りの友達はひいおばあちゃんっていうから、「ひいおばあちゃん」「おおきいおばあちゃん」は別物だと思っていた、私の幼いとき。

そんな私の母方のおばあちゃんの方のひいおばあちゃんとの小さくて、消えてしまいそうなほどわずかに残っている思い出をここに書き散らそうと思います。


私の小さい頃

私はまだまだ小さい時だった。

恐らく5歳か、それ以下か、、。
そのくらいの年齢の頃。

私には既に弟が生まれていて、弟がいるからといって、"捨てられる"ことを恐れていた時期がありました。

だから、今までは1人で行けた場所も、
1人で逃走できたことも、
捨てられる恐怖からできなくなった。

それは、今思えば父がよく言っていた「橋の下で拾ったんだ」という冗談からも連想されたからかもしれない。

だから1人では怖くて
おつかいにも行けなかった。

帰ってきたら親がいないんじゃないかって恐怖がすごくすごくあった。


その思い出のはじまり

そんな私、4歳か5歳くらいになる時に、まだ恐怖心はあったものの、1人でおばあちゃんの家にはお泊まりに行けるようになっていました。

恐らく、まぁ弟を母が妊娠している時によく預けられていたのもあるかもしれない。
そこで学んだ、"絶対に1人にならない"という環境からなのかもしれない。

ある日おばあちゃんから電話がかかって来た。

「さなちゃん、おばあちゃんの家泊まりに行く?」

その時私は何も疑問に思わず、
「うん!」と答えた。

私は親に「本当に大丈夫なの?」と聞かれた。

私のおばあちゃんの家はとても近くて、車で15分くらいの場所にあったから、会いたくなったらすぐに会える距離でもあるし、全然へっちゃらになっていました。

おばあちゃんの家に行くと、普段は飲めないようなジュースが飲めたり、服を買ってくれたり、たくさん私に尽くしてくれて、怒られもしない。

父がとっっっっても厳しかったので、そんな環境が当時の私にとっては天国でしかなかった。

そして、お家までおばあちゃんが迎えに来た。

じゃあねー!と元気にお母さんに手を振る。

私はこの時、15分で行けるおばあちゃん家に行くと思っていたが、

実際は2時間半かかる
おばあちゃん家だったのだった、、。


おばあちゃんの家に来るか、と聞く時は、「おばあちゃん家くる?」と聞くはず。
おばあちゃんは「おばあちゃん家に行く?」と言っていた。
でも小さい頃の私にはそんな違いもわかりませんでした。


車酔いの激しい私

私は昔から車酔いするタイプで、小さい時は特に三半規管が弱すぎて車酔いが激しく、100%車酔いしていました。笑

なのにおばあちゃんと天ぷらとオレンジジュースを飲み、案の定高速道路なのに車酔い。

恐らく、おばあちゃんは地獄だったでしょう。笑

(後から聞いた話では、お母さんは揚げ物と柑橘系は車に乗る前に食べさせることを禁止していたそう。笑)


おばあちゃんの家に到着

たどり着いたのは、
ひいおばあちゃんの家だった。

私のひいおばあちゃんの家は茨城県。
神奈川からはもちろん、遠く離れている。

茨城弁がとてつもなく飛び交うような地域。
おばあちゃんもおじいちゃんも地元が一緒で茨城出身なんです。

私は毎年1回は必ずこのひいおばあちゃんの家に行っていました。


ひいおばあちゃんの家

ひいおばあちゃんの家は大正に建てられた、昔ながらのお家。(今も健在)

玄関はもちろん引戸。

ガラガラと開けたら高ーい玄関の段差が待っていて、私は1人で登ることはできませんでした。

そこを超えると、とっても広い畳の部屋。
そこを超えれば縁側がぐるっと家を囲うようにあります。
確か二階建てではなく、平屋だったと思った。

1番恐怖なのはトイレは吸い込まれそうなほどの穴があいた、和式のボットントイレ
お風呂は深くて小さめなお風呂です。

仏壇や、白黒写真が飾ってあったり。

あとは曖昧ですね。

まず、お家に入ったら仏壇に拝むんです。

けど、誰の仏壇なのかはわからない。

今思えば恐らくひいおじいちゃんだったのかな。


私の記憶に残っている思い出

私はその後ひいおばあちゃんとみんなで色んなところに行きました。
でも写真があるからそれがわかりましたが、その時の記憶は全然ありません、、。

そんなこんなでしたが、私の中で記憶に残っていることといえば。


おばあちゃん家に着いてから夕方くらい。

私はお母さんに会いたくなってしまって、「ママに会いたい」と駄々をこね、泣きました。

でもこんな遠いところ。

そんなすぐに会えるはずも無く、当時携帯電話も持っている人が少なかったので、ひいおばあちゃんは「電話かけっか?」といって電話のところに案内してくれました。

窓辺にある机のような場所に置いてあった
黒電話

「これで電話をかけるんだよ」と言われて、
私はなんだこれは、、となった記憶があります。


とりあえずダイヤルを
ぐるぐるできることはわかった。


でもお家にあるのは数字の書いてあるボタンがある電話で、番号の所が光ってるやつ。

その電話には「電話」という名前なのに電気が通っている雰囲気がまるでなかった。
それがとっても不思議だった。

これは、おもちゃではないか、とも疑った。

でもとにかくママに会いたい!

すると、「電話番号覚えとるか?」と聞かれて、私は迷子になったりした時の為に電話番号と住所を覚えさせられていた。

だから、うん。と答えると
数字のところに指を入れて回すとかかるから。
と言われて言われた通りに回す。

でも、
「それだとかからんな」
と言われる。

そう、黒電話で電話をかけるときは、銀色の金具のような突起のある部分までダイヤルを持っていかないとかからない。

それを知らなかった。

ひいおばあちゃんは一生懸命教えてくれた。

戻るのが遅くて少しイライラした。笑
(せっかち笑笑)

でも無事かけることができて、お母さんの声を聞くことができて、私は安心することができました。

でも、これは後に貴重な体験だったことを知る。


小学生になった時

私が小4くらいの頃、歴史と共に歴史の資料館を見る機会があり、黒電話が置いてあった。

「これは昔の電話です」

と言われて説明を受けました。

私これ触ったことあるやつだ。って思いました。

でもクラスのほとんどは黒電話の存在を知らなかった。
私は触った記憶のあるもの、かけたことのあるもの、、それだけでなんだか天狗になってました笑



今思えば

ほんとに黒電話で電話をかけた人って少ないと思うんです。

小さい頃の私からしたらあの黒電話の受話器はとてつもなく重たかった。
なぜ回せばかかるのか、それが不思議でたまらなかった。

その他にも私のおばあちゃん家にはチャンネルを回すタイプのテレビがあった。
ボリュームも勿論回す。
別にボタンもついているけど、基本は回して合わせる。
そんなテレビ。

夏休みおばあちゃんの家に行ったらそのテレビでスーパーファミコンをやってました!
(あのクリーム色と赤のやつね笑)

ちなみにソフトはゼルダの伝説ですね笑笑笑

同年代の子と話をする時、大概おばあちゃんの家にはそういう昔のものがあるものだと思っていたら、私の周りはそんなでもなく、全然しらないとか、それ相当昔のやつじゃない?とかそんなことを言われる。笑

私昔のものを知れていて、なんだか得した気分になっています。


そして今でも1年に1回は必ず茨城に行き、山の上まで墓参りをしに行きます。

ほんとに山の上のため、おばあちゃんたちにとってはとてつもない登山。

水を持って行かなきゃ行けないので大変なんです。

これからも時代を大切に

こんなことを経験している人って段々少なくなって行くに違いないですし、だんだんと貴重になっていくと思います。

今こうして普通に触っている最新のものも時代と共に最新では無くなっていきます。

無くなっていってしまうのはとても寂しいことではありますが、時代なので仕方のないことです。


もうひいおばあちゃんは亡くなってしまいましたが、そんなふうに私の記憶に刻まれています。

ものよりも体験や記憶が大事だったりもします。

私も子どもができたら、色んなことを体験させてあげたいなと思いました。

(まとまってますかね、、!?)

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