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「つくる」は「私」そのもの。

私は物心ついた時から、「作品を作る」ということが好きでした。

中でも「物を描く」ということが好きでした。

幼稚園の時から、「自分の世界」を物語にするのが好きで、物語をかきながら絵を描く、「絵本」のような物を作成していました。

「そんなにつくることが好きになったきっかけは?」

とよく聞かれるのですが私はきっかけが特になく、本当に気付いたら好きで、幼稚園の落書き帳(スケッチブックのようなもの)はクラスで一番多く消費していました。笑


小学生になった私がたどりついたのが、漫画を描くこと。

私は小学校1年生の時の誕生日に初めて漫画雑誌「ちゃお」を買ってもらいました。読み方もわからず、見ていくうちに「あ、こう読むんだ」と自然に身につき、よく考えたら漫画は私が好きだった「絵を描く」と「物語を考える」が一緒になったもの。

そこで、私は「漫画を描く人」になりたい。と思ったのです。

小学校でも私は人見知りな性格だったので、友達がいませんでした。

でも、絵を描いていれば「すごい!上手!」とたくさんの人が寄ってきてくれる。私はそれがすごく人気者になった気分になって、とっても気持ちがよく、「友達がいない」という自覚がありませんでした。

しかし、高学年になっていくにつれて修学旅行などの友達とペアになるイベントごとが多くなってきます。その時、「私はこの子と組みたい!」と思っていても、その子は他の人とペアにすでになっていて、私は気付いたらひとりでした。

休み時間も気づいたらひとり。

私も元に「上手だね!」とよってくる子も一人もいなくなっていました。

私はそこから「描くこと」をあまりしなくなり、ゲームをしたり外でドッチボールをしたり、友達を作るために必死でした。

しかし、簡単に友達ができるわけもなく、気づいたら省かれていたり、悪口を言われていたり、私はまたひとりになってしまっていたのです。

そこから私は英会話教室に通っていたということもあり、外国人の子や障がいのある子と遊ぶようになりました。

日本語ができなくても、自分の思い通りにできなくても頑張っている人がたくさんいること、私のことを友達と認めてくれる人がいるということを初めて自覚することができて、私は様々な面から見て「友達の大切さ」を初めて実感することができました。

ある日、私は外国人の友達に「さなって、絵を描くの上手だよね!かいてよ!」と自由帳を差し出されました。

そこで、絵をかいたら、外国人の友達が「上手!将来なにになるの?絵を描く人?」と聞かれた時、「本当はね、漫画家になりたいの」というと、「さなならなれるよ!」と言ってくれました。

そこから私はまた漫画を描くようになりました。

いろんな人に読んでもらって、「この続きが気になる!」と言ってもらったりして、私はまた「漫画家になろう」と思いました。

中学では美術部にはいり、部長を務めました。

美術部で応募したコンクールで賞をもらったり、とってもやりがいの感じる3年間でした。


気持ちの変化があったのは高校生の頃。

私は高校生になると、「漫画家」になることに不安を持ち始めました。

それはTwitterを始めた時に最も感じました。

漫画家を目指す人はTwitterの中だけでもこんなにいる。

私と同い年とは思えないくらいの画力の人たちがたくさん。

私は自分の実力の低さにとても絶望しました。

それでもがんばってみようと思い、ペンタブを購入し、comicoでの漫画投稿を始めました。

すると、たくさんの読者の声。

「絵が下手くそww」

「意味がわからない。ついていけない。」

「出直せ」

読者が増えれば増えるほど増えるそのような声。

私は「そんなふうに思われるような漫画を描いていたんだ」と初めて知りました。

もう一度書き直してみよう。と新たなストーリーを考えなおそうと思った頃、私の同級生が登校中に交通事故で亡くなったのです。

私はとくに話したこともない同級生だったのですが、自分なんて生きる価値があるのか、必要とされていないんじゃないか、私が死んでも誰も悲しまない。と考えたこともあった私は「明日がある」ことの素晴らしさ、「今を生きていること」の素晴らしさを思い知らされました。

昨日、「また明日ね!テスト嫌だな〜」なんて廊下で友達と話していたばかりの人が、次の日の朝に登校していつものように「おはよう!」ということもなく、突然いなくなってしまったということの悲しさ。言葉に表すこともできないほどの絶望感がありました。

まだまだ、未来だってあるのに。

その年は、ちょうど戦後70年の年でした。

そこで、みなさんにも命の尊さ、自分の命を大切にして欲しい。こんな事実があったことを忘れてはいけない。明日があることの素晴らしさを伝えたいと思い、戦争の漫画を描き始めました。

様々な出来事や学生の身にあったことを図書館に行ったり、インターネットで検索をかけたり、たくさん調べてはメモって、それを物語にしました。

間違えた情報を描いてしまっても皆さんに違った出来事をお伝えすることになってしまうし、叩かれる原因になるため、できるだけその時代の言葉使いや服装など研究をして描いていました。

そのため5話で完結の短編漫画でしたが、物語を描くまでがとても大変でした。

しかし、思ったよりたくさんの方からの励ましのお言葉とたくさんの感想をいただき、これまで完結までなかなかかききれなかった漫画を初めて完結まで持っていくことができ、嬉しく思いました。

あの気持ちは今でも忘れられないほど、うれしかった。

その時ちょうど私の祖母が入院しました。

私の祖母は誰よりも私の絵を褒めてくれて、渡すと一番喜んでくれていました。

しかし、病気で表情がなくなり、手足を動かすことも困難になりました。

そんな祖母に私は月に一度のお見舞いに絵を描いて持っていきました。

すると、私の祖母が笑顔になり、漫画を描いてるんだよとスマホを見せて、スクロールの仕方を教えると祖母はなかなかうごかすことのできない腕を上げ、スクロールして、笑顔で見てくれていました。

私はそれから、絵を描いて必ず祖母のところに持っていくことにしました。

すると、祖母の病室にはたくさんの私の絵が飾れるようになり、話すこともあまりしなくなってしまった祖母でしたが、看護婦さんに「絵お上手なんですね、どなたがかかれたんですか?」という質問に祖母は笑顔で「孫です」と答えたという話を祖父から聞き、とっても嬉しく思いました。

しかし、現実的に漫画で食べていくのは大変なこと。

漫画で大成功のできた人でないと他の仕事と掛け持ちをしながらになってしまうこと、私も諦めたくはなかったのですが、諦めてデザインや絵を描くことなどを活かせるような別の道に進むことに決めました。

それは、今の職業である「グラフィックデザイナー」です。

私がグラフィックデザイナーという職業があることを知ったのは高2の時でした。

電車の中吊り広告は暇だなと思っている間、思わずずっと見てしまうものです。

私自身「誰かの目にとまるもの」を作りたいというのもあったので、「これだ!」と思った瞬間でした。


そして、現在。


一番そばで応援してくれていた祖母は亡くなり、就職できたよ!デザイナーになるよ!成人したよ!という報告が直接できなくて残念な気持ちでいっぱいでしたが、私のことを今でもまだどこかで見てくれている気がして、私は周りの今まで応援してくれた方や応援してくれている方の期待に応えて、これからもデザイナーとしての腕を上げていきたいと思います。

辛いことも、腹が立つことも、泣きたいことも、嬉しいこともたくさんありますが、周りの人の支えがあり、私は自分の世界観や作品、物を「つくる」ことで自分自身ができている気がしています。

もし、「つくる」ことに出会えていなかったら、私は人見知りで不思議な何もしないニートのような人になっていたかも知れません。

いままでも様々な物を作ることによって救われたことはたくさんあります。

もちろん失ってしまった物もありますが、物をつくることができない人生は考えられません。

私が作ったものが役立っている、世に出回っているというだけでもこんなに誇らしいことを私自身が経験できる、職業にすることができると思ってもいなかったので私はこの職業に出会えてよかったと心から思います。

それぐらい、私にとって「つくる」ということは人生において大切で必要不可欠なことであり、私を作ってくれる、私自身そのものなのかもしれません。

これからもクリエイター活動頑張っていきたいと思います! もしよろしければサポートをお願いいたします🙇‍♀️ いただいたサポートは今後の活動に使わせていただきます!