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詩誌「三」68号掲載【ラプラスの悪魔は悲劇を好まない】飯塚祐司

「仮にある瞬間におけるすべての原子の位置と運動量を知り得る存在がいるとした場合、その後の状態をすべて計算し、未来を完全に予測することができる」と十九世紀の数学者ラプラスは提示し、その存在は「ラプラスの悪魔」と呼ばれた。ただし、現代の物理学において悪魔の存在は否定されている。

男は一心不乱にキーボードを叩いていた。ディスプレイの下から上へ、数式や文字の羅列が次から次に消えていく。男が打ち込んでいるのは、とあるアプリの修正プログラムだった。そのアプリは未来予報と呼ばれていた。ありとあらゆる情報をAIが収集、分析、計算することで、未来に起こりうる事を知らせてくれるものだった。
例えば歩いている際、道路の路面状況を衛星の画像から分析し、歩行者の歩幅や筋力、天候による視界や他の歩行者の数によるルートの選択を予測し、「このまま進むと段差に躓く恐れが七八パーセント」といったように教えてくれるのだ。
このアプリは瞬く間に普及し、多くの人が予報された未来を基に行動を選択するようになった。それに従い危険を未然に防ぐことが可能となり、不慮の事故は目に見えて減少の一途を辿っていった。
しかし、ある時を境に予報の精度が下がっていることに男は気がついた。AIのバグを疑ったが、プログラムは男が想定した通りに動作しており、いくら調べても問題はなかった。そこで男はAIではなく、ユーザーの行動に原因がある事に気がついた。
辿り着く場所が同じ左右の分かれ道があったとして、左の道が危ないと言われた場合、多くの人は右の道を通るだろう。その結果、右の道は密集し想定外の衝突や事故が発生する可能性が上がってしまった。つまり、予報によって変わった未来の可能性が及ぼす影響を、このアプリは計算することができなかったのだ。
男はより精度の高いプログラムを組もうとしたが、人の心理がどのように影響するかは不確定要素が多すぎて、どんなAIでも計算することはできなかった。そこで男は別のアプローチでプログラムを修正することにした。その修正は、もう間もなく完成するところだった。

一日が終わり、寝る前にアプリを立ち上げた。以前は未来を予報してくれたアプリだったが、今は未来の事は何も教えてくれなくなった。その代り、その日一日をこうやって振り返ってくれるようになった。
もし、今日電車ではなく車で出勤していたら、六パーセントの確率で事故にあっていたでしょう
もし、今日お昼にかつ丼ではなくカレーうどんを食べていたら四九パーセントの確率で汁がはねていたでしょう
もし、今日三階まで階段ではなくエレベーターを使っていたら三一パーセントの確率で降りる際ヒールで踏まれていたでしょう
もし、今日十八時二十七分発の電車に乗って、三両目の車両の右から二番目の扉の前で吊革に掴まろうとしなければ、九九パーセントの確率であの人との出会いはなかったでしょう

2022年12月 三68号 飯塚祐司 作


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