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涙のROCK断捨離 22.JON_ANDERSON「IN THE CITY OF ANGELS」


ジョン・アンダーソン「イン・ザ・シティ・オブ・エンジェルズ」/JON ANDERSON「IN THE CITY OF ANGELS」
1988年

1980年代は、誰もが音楽を楽しむようになった時代だと思います。
いや、年代に限らず誰もが音楽には親しんでいたと言われればそうなのですが、この時期、音楽はファッションや様々な文化と結びついて、非常に親しみやすい形で日常に入り込んだと思うのです。
その代わりに哲学性の強い長尺の作品や自己満足のソロ・バトルや実験的な挑戦は影を潜めて、耳障りの良い、適度に明るく、適度に感傷的な名曲が街に溢れました。

それまで音楽を消費財ととらえる気持ちは無かったのですが、この時期には生産者と消費者がいるのだなという気にさせられたものです。
アーティストは芸術的な発露として音を紡ぎだす創作者から、リスナーが喜ぶものを提供する生産者に変わり、評価はマーケットに委ねられました。マーケティングっぽく言うと、チャネル・キャプテンがアーティストから視聴者に移ったという感じでしょうか。

数が質を担保する、ということが起こったのか、音楽もマーケティングで良いサービスが提供できるんだ、ということだったのか、この時代には沢山の名曲(駄作も)や素晴らしいミュージック・ビデオ(退屈なものも)が作られました。

この流れでアルバムを語るのもなんですが、改めて聴いてみて、1988年発表らしい音が鳴っていたので、つい「そんな時代だったんだな」と思ってしまったわけです。ジョンは悪くない。時代のせいなのです。

私はよく「ジョン・アンダーソンが歌っていれば、そこはもうイエスや」と言いがちなのですが、これはジョンのソロアルバムにもかかわらず、イエスではありません。
アメリカ西海岸っぽい洗練された演奏は、ボーカルを立てて抑制が効いています。
ドラムとベースがゴリゴリ前に出てきたり、歌よりも目立つソロを弾くギタリストやキーボードプレーヤーは、ここにはいません。
ジョン・アンダーソンのボーカルが好きなら、何の問題も無いはずなのです。
そもそも、ここでイエスっぽい音が鳴っていたら、それはそれで批判的に受け止めた可能性だってあります。
ただ、前年に発表されたイエスの「ビッグ・ジェネレーター」に何の感慨も持てなかった私としては、ちょっとした期待があったのです。
そして、それは裏切られました。
イエスの「ビッグ・ジェネレーター」が産業ロックなら、ソロの「イン・ザ・シティ・オブ・エンジェルズ」はAORじゃんかと。
昔好きだった子の今付き合っている相手が気に入らなくて拗ねているようですが、そう思ったのですから仕方ありません。

TOTOというバンドがいます。(カタカナで書くと変だったので、あえて英語表記にします。)超が付くほどのテクニックとセンスを持つスーパーバンドで、ヒット曲も多いので、ジョン・アンダーソンの記事を読むような方には説明不要かと思います。
自分の中では、井上陽水安全地帯ボブ・ディランザ・バンドのように、ボズ・スキャッグスのお抱えバンドな印象を持ってしまうのですが、TOTOとしてはAORは隠し味にしてロックなアプローチが成功していました。
非常にバランスの取れた大人なバンドだったわけですが、唯一、私が好きになれなかったのはボーカルでした。何人変わっても、全部ダメ。(個人的な感想です。)音楽雑誌などでは「素晴らしい高音」などと書かれていたように思いますが、なぜ褒められているのかさっぱりでした。

なんでTOTOのことを書いているのかというと、このソロアルバムを作るくらいなら、いっそ、ジョン・アンダーソンTOTOに入ってしまえばよかったのではないかと思ったからです。アルバムのクレジットには、TOTOのメンバーの名前も見られます。
AORっぽいというのは、私の期待を裏切るものではありましたが、結果として悪かったわけではありません。先入観無しで聴ける人には、心地よいポップスが楽しめるアルバムだと思います。

80年代を思わせるオシャレな音が、ところどころで鳴ってしまうせいで、オヤジ・リスナーとしては逆に古さを感じて、今聴きたいとは思えません。個人的には評価していないアルバムなのに、長々と書いてしまいました。

Spotifyにはありました。https://open.spotify.com/album/5gRUt3wH470P23aK37bqSj?si=mjlsOlbHQRio5Z4NN2VHTA


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Photo by Kelvin Zyteng on Unsplash