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多様性社会における誠実さの意義とそれに伴う摩擦について

自分に誠実であることは他人を傷つける。そう改めて強く感ているのはバチェロレッテを観たからだけではないと思っている。

カント的な倫理観

人が生きる第一の目的は、誠実であることだと彼は言ったらしい。犯罪者を家にかくまった時に、警察から問い合わせがあれば、かくまっていることを正直に応えよ、と。
そのような対応するなら、なぜ最初からかくまったのか?と突っ込みたくなるところだが、自分に誠実であることの残酷さを示す適切な事例だろう。

D&I世界における倫理観

多様と包摂を掲げる世の中においては、自分の価値観に誠実に行動してゆくことは一見容易いように思える。現に何か特定の優位な価値観が存在していて、これを建前としていた社会に置いては、本音を言いづらい、或いは本心とは違う行動をとらざるを得ないことが多いだろう。同調圧力と呼ばれているものが作用している、捉えることもできる。
この同調圧力に対抗する力として、自分に対する誠実さがある。圧力に負けず自分が信じることに従えば、確かに多様な価値観を認め合う世の中に向かってゆくかもしれない。

でも考えて欲しい。その過程で生まれる軋轢、摩擦、ぶつかりあいを。

相手が知らなくてもいいこと、相手を傷つける可能性が高いことであっても、自分の価値観をわかってもらうためには、あるいは自分に誠実であるためには、伝えるべき必要がある。200年経ってもカントの倫理命題はここに残っているのだし、自身への誠実さが不可欠なD&I世界だからこそより正面から向き合うべき課題になってきているのだ。

どうするのか?

誰も傷つけないように自分の価値観を大事にしてゆけばいい、といった逃げ方をしたくない。他人を傷つけないことなどあり得ないから。

傷つけたとしても分かり合える相手、言い換えれば価値観(と言うより正義に近いかもしれない)の多くを共有ができている相手には、自分の価値観を全面に出してぶつかり合うリスクを取るのだろう。それによってより関係性を深めてゆく事もできるかもしれない。
そうでない相手にはある程度自分の価値観を心に押しとどめながら、表面的な価値観のすり合わせしかできないだろう。割と単一的な日本社会では、世代間ギャップが生じているケースが代表例かもしれない。

価値観の近い人ほど価値観の違いの解像度が上がる構図だ。

ちょうど無限にある恒星が、僕たちの目では地球から近くにあるものしか見えないように。

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