前田荘でスパークした1年のこと
「5分で出発だからな。素早く整列!」よーい、ピッ!
中学3年、「修学旅行専用新幹線に乗る練習」を校庭でマジメにしていた。
ほとんどの学生が、初めて新幹線に乗る。
わたしは、18歳の春そんな田舎から数分おきにバスや電車がポンポン出発する神戸に降り立った。浪人生となり、ひとり暮らしをするからだ。
あまりの人の多さに、「毎日がお祭りだ」と思った。
なんせ田舎には、予備校がない。しかも行った予備校には、寮がなかった。
不動産屋から紹介されたのは、女性だけが住んでいるという前田荘。
家賃を大家さんにお支払いに行くと、巻紙の通行手形みたいな家賃領収証に、ハンコを押してくれた。
そんな古風な大家さんだけれど、1Kの部屋にはホテルでしか見たことがなかったユニットバスが備えつけてあり、萌えた。
初めてのひとり暮らしは、料理に四苦八苦した。ご飯ができるまで、じーっと眺める。次はみそ汁という具合で、予想外に時間がかかった。
勉強どころではない。
1週間後、同時にほかの家事ができるようになった。例えば、料理しながら風呂の水を溜めるとか洗濯するとか。
まぁとにかく毎日、目を白黒させていた。
浪人生仲間との出会いも刺激的だった。みんな素敵なヒールを履いていた。
神戸は「履きだおれ」といわれるくらい靴屋があるから、浪人生が足元から大人びて見えた。
そう言えば、よく仲間のお母さんが私を心配してランチに招いてくださったな。
「ねぇ、クラブサンドは好き?オレンジもあるよ。」
都会っ子は、こんなオシャレなものを食べているのか?
有名なパン屋さんのパンに、ローストビーフと野菜がタップリ!
オシャレ…。で、デカイ…。
「はい、合格願って、スマイルカットのオレンジね」
す、す、スマイルカット?
どこのメーカーのオレンジですか?
(スマイルカットとは、くし切りのこと。切り口が笑顔の口元に見える)
「これは、一気にパクっと行く方が美味しいよね」と、平静を装いながら食べ方の探りをいれる。
「うん、遠慮なく行ってええよぉ」
ボキっ
その日から、私は顎関節症になった。
勉強どころではない。
そうそう、
キラキラした都会の真ん中にある予備校の帰り道は、これまた祭りだった。
なんでも売っている。
トキメくお店が多すぎた。こんなにお店があるんだから、アレも売っているはず!
「よし、今日は泡風呂を作るぞ!」
あの洋画や海外ドラマで観た夢のようなモコモコの泡風呂!
一度やってみたかったのだ。
雑誌でみたことがある海外製バスミルクを見つけ、舞いあがる。限られた仕送りのなかから、買うことを決意。
勉強どころではない。
バスミルクをドバっと入れ、シャワーで泡立てる。その間に料理をしているなんて、わたしってばデキる女の子やん!
ナゾの優越感で、フライパンを動かす。
ん?
ん?
!!!!!!
ユニットバスの扉から、モワモワしたものがはみ出している。
立ちすぎた泡が、トイレを飛び越え床に侵入…まもなく玄関に到達しようとしている!
あわわわわわ
優雅な洋画シーンは、悲惨なそうじタイムとなった。
こんなアゴをポキポキさせながらの泡そうじは、数々の浪人エピソードのほんの一部だ。
前田荘での1年で、わたしの脳は受験勉強でスパークするより生活でスパークし続けた。鍛えられた。
前田荘から6回引越しし、結婚して子どもも大きくなった。
気がついたら仕事もしているし、家事もなんとか同時進行できるようになっていた。スマイルカットで、オレンジも出しちゃう余裕ったら。
要領はあの時よりは120倍良くなった。
いつのまにか威勢のいい音がなっていたアゴは、もう鳴らない。
なんとかなるもんだ。
「人生、何が起こるかわからないよ」
わたしをひとり暮らしに送りだすときに、両親が言ったことば。
何を大げさな…と思っていた。
ところが、そのあとの人生でわたしはこの言葉を何度言ったかわからない。
やらなくていい失敗、ビックリする奇跡も結構あった。前田荘での「濃い予行演習」があったからこそ、やってこれた。
ところで…
かの憧れの泡風呂バスミルクは、2プッシュで1回分とある。
わたし、あのとき1本近くいれたよね。
あれから少し勉強した。説明書を読むようになった。
今日は、注意深くバスミルクを入れよう。
人生なにが起こるかわからないから。
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