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#37 ヴェーダを学ぶ意味

以下、個人的な意見ですが、ヴェーダの教えを学ぶ意義を自分なりに言葉にしてみました。

社会から失われたダルマの価値

村のコミュニティが機能していた時代は、どこの集落でもダルマ(秩序との調和)に通じた長老のような人たちがいて、その人たちがコミュニティの精神的な拠り所となり、道徳・倫理という形でみんなが「ダルマとは何か」を自然に学べていたのだと思います。

村を訪れる旅の僧侶や賢者から、「有り難いお話」のような形で学ぶこともあったと思います。

ヴェーダの教えというのは、それくらい当たり前のことを言っています。

「神仏への感謝と祈りを忘れないように」
「年上の人を敬おう」
「生きとし生けるものを大切に」
「騙して儲けてはいけない」
「自分がされて嫌なことは人にもしないようにしよう」
etc.

このようにまとめてしまうことは適切ではないかもしれませんが、あえて誤解を恐れずに言えば、前半のヴェーダの主題はそのレベルの話題であり、特別な人のための特別な教えではありません。

近代化と共に都市化が進むにつれ、集落の機能は失われ、社会は家庭という単位に分断されました。

それぞれの地域で先生から生徒へ、古い世代から新しい世代へと伝わってきた教えの伝統が途絶えました。

ダルマを学ぶことのできなかった大人は、家庭において子どもにもダルマを伝えることができません。

学校の先生もダルマを教えることができなくなります。

こうして家庭から、教育の場から、社会からダルマという価値観が失われていきました。

ダルマの価値そのものは普遍で、時代が変わっても損なわれることはありませんが、「ダルマの価値の価値」が人々に見失われました。

日本やインドを含む世界中で現在進行形で起こっているのは、このようなことだと思います。
(インドでも資本主義的な価値観に圧倒され、また宗教的・文化的な侵害もあり、ヴェーダの文化は失われつつあります。)

ダルマの価値を学ぶ意味

世間や世界との調和に必要な教えが見失われた今の時代にこそ、「当たり前」のダルマの価値を、ヴェーダに学ぶ意味があると思います。

「昔はこんな話(ヴェーダの教え)はどこの家の裏庭でも夕方、おじいさん、おばあさんがしてくれたよ」

スワミ ダヤーナンダジは少し誇らしげに、そのように言われていたそうです。

ヴェーダはインドに固有の教えではなく、かつては世界中のどの文化にも同じ教えがあったと言われます。

アメリカインディアン、アイヌ、アボリジニ、マヤ文明、縄文文明など、他の文化において教えの伝統が途絶える中、オリジナルの教えが、教えを伝える方法論と共にまだかろうじて残っているのが、インドに伝わるヴェーダの文化です。

「傷つけない」「盗まない」など、人間であれば国や時代を問わず、誰もが「それでよい」と思える普遍の価値が、サーマンニャ・ダルマ(普遍のダルマ)と呼ばれる価値です。

普遍の価値であり、100%言葉でのコミュニケーションが可能な話題なので、誰でも学ぶことができます。

なぜダルマを学ぶ必要があるかと言えば、人間が安心、満足、幸せに生きるにはダルマが必要だからです。

ダルマはこの宇宙の法則・秩序との調和です。

法則を無視することも、法則と摩擦しながら快適に過ごすこともできず、たとえ小さな不調和でも、喉に刺さった小骨のように、私たちは居心地の悪さを感じるようにできています。

そのことに気づかないふりをして、何を得たとしても心地悪さが消えることはありません。

どのように調和を選べばよいかの基準は、「良心(良い悪いのセンス)」として人間に与えられています。

「傷つけないでほしい」
「奪わないでほしい」
「優しくしてほしい」

そのように私たちは他の人に対して期待する態度、振る舞いがあります。

他の人にしてほしくないことを自分がしている時、ダブルスタンダードがあります。

そのダブルスタンダードがある限り、「これでよい」と自分を受け入れることができず、自分で自分のことが嫌になってしまいます。

自己肯定感(自己尊厳)を持てなくなることは、人生の大きな損失です。

調和を選べず自己尊厳が持てない時、してしまったことへの後悔や、これから起こることへの不安で、今に寛ぐことができなくなります。

ダルマに留まり、健全な自己尊厳を保つことが「成功」の意味と言われます。

ある程度の自己尊厳があって初めて人は、「人生の意味」や、「私とは何か」「幸せとは何か」を探求することができます。

ヨーガの役割

ヨーガの先生は、ダルマの価値を学び、実践し、伝えられる人です。

聖者のようでなくてはならないという意味ではなく、自身も先生から学び、家庭や社会での役割において、日々丁寧な選択、ダルマな選択をしようと努力していることが大切だと思います。

先生は生徒の状況に応じて、アーサナや呼吸法などで、まずは生徒の心身を整え、落ち着いて教えを受け取れる考えの状態をつくります。

落ち着いた考えで、先生と聖典の言葉への信頼を持つ生徒にとって、ヴェーダは単なる知識ではなく、実践可能で、自分自身を貢献者へと成長させることのできる実用的な道具、技術となります。

ヴェーダを学んだりヨーガをお伝えしたりしていると、

「もっと早くこのことを知りたかった」

という感想を聞くことがよくあります。

子どもの頃から、家庭や地域、学校で、こんな話題を普通に学ぶことができたら素晴らしい。

ヨーガのクラスで先生から学んだこと、ヴェーダの伝えるダルマの価値が、各家庭や地域で当たり前に話されるようになってほしい。

そんなふうに願っています。

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