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約1ヶ月かけて、ミヒャエルエンデの「モモ」を読み聞かせました。


3月頭からの休校で、親子で何かを成し遂げたいという思いが浮かび、ミヒャエルエンデの本を音読(朗読)で読破してみよう、というチャレンジが始まりました。子どもの頃、一大ミヒャエルエンデ・ブームが起こり、「モモ」「はてしない物語」などが映画化。バブル前夜の、日本がまだまだ元気な頃です。都会の大きな書店から父がハードカバーの「モモ」を買って来てくれたのですが、何度読もうとしても何故か最初の数ページの時点で挫折。当時、翻訳された日本語の文章に抵抗があったのかもしれません。小学生だった私には、モモがたどり着いた「円形劇場」とやらが何を意味しているのか想像も付かず、何となく興味も惹かれずそのままにしておいて早数十年経っていました。

読了後の今となっては、我々日本人にとってのモモのすみかは、「円形劇場」よりも、ドラえもんに出てくるような土管のある空き地、のほうがしっくり来る気がします。町はずれの、忘れ去られたような空き地で子ども達が遊んでいた昔は、昭和の時代には確かに存在していました。ああいう空き地もここ数十年でかなり無くなってしまいましたね。

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当初は、息子はハリーポッターなどのファンタジーも好きなので、これもいけるんじゃ?といったほんの軽い気持ちで読み始めました。寝る前のひとときを使って朗読(音読)をはじめましたが、息子が途中で寝てしまった時には次の日にもう一度その章の最初から(もしくは内容が分かる部分から)読むといった感じで、ゆっくりゆっくり。勿論、読まずに寝てしまう日もあったので、お昼の時間のある時に集中して読んだことも。物語の世界にすっかり引き込まれた息子はこちらが読み疲れていても、あともうちょっと、あともうちょっとと言って、一時間以上読んだ日もありました。

こうして約一ヶ月かけてようやく読了したのですが、気づいたことが幾つかありました。

1.「モモ」は、黙読よりも、朗読(音読)に向いている。

息子の国語の宿題に音読がよく出されますが、ただ読むだけではその効果は不十分かと思います。息子が単調に読んでいるだけの時には注意する事もしばしばあります(毎回ではありません…)。実際に声に出してみて、且つ丁寧にその文章を頭の中で組み立てながら読み解くと、ただ字面を追いがちな黙読よりも、内容がすっと頭に入って来るのです。これは全ての文学に共通するものではないかもしれませんが、少なくとも、ミヒャエルエンデの「モモ」では、テンポ良い会話のやり取りや心の深い所に沁み渡るようなフレーズに、朗読(音読)の効果を感じました。

2.児童書の皮を被っていますが、実は大人たちにグサグサ刺さってくるメッセージが満載。

エンデ自身、そもそも「モモ」を執筆するにあたって、子ども向けの作品を書こうとしていたのかどうかはわかりませんが、もし子ども時代に読了していたら、また印象が違っていただろうなと思います。ひょっとすると子どもの理解力や人生経験では、遠い何処かの国のお話程度にしか思えなかったかもしれません。しかしながら、大人になって読んでみると、これは今の自分たちを取り巻く世界にすっかり当てはまってしまっているではないか…と薄ら寒くなって来る所もありました。就職が決まらず、気ままなフリーターを続けていた若い頃の自分と、自称観光ガイドのジジの姿が重なりました。また、老体に鞭打ってモモの為に身を粉にして働くべッポ爺さんの姿が老後2000万円問題に揺れる将来の自分達と重なりました。。。

と、この本を読んでいる間にも随分と世界は変わってしまいました。新型ウィルスが世界中で蔓延し、あらゆるものの自粛を迫られている昨今。これまでの、常に何かに追いかけられるような忙しい世界から一転、モモと時間どろぼう(灰色の男たち)が闘っている間に完全に世界が止まってしまっているような、そんな気さえしてきます。


モモが、時間どろぼう(灰色の男たち)との闘いを決心するシーンの一文が、今の世界を象徴しているようで、特に印象的でした。



モモは逃げる気がなくなりました。いままで逃げまわったのは、じぶんの身の安全をはかってのことです。ずっと彼女はじぶんのことばかりを考え、じぶんのよるべないさびしさや、じぶんの不安のことだけで頭をいっぱいにしてきたのです!ところがほんとうに危険にさらされているのは、友だちのほうではありませんか。あの人たちを助けることのできる人間がいるとすれば、それはモモをおいてはほかにはないのです。友だちを自由の身にしてくれるよう灰色の男たちを説きふせられる見込みがほんのすこしでもあるなら、すくなくともやってみるだけはやらなければなりません。そこまで考えてきたとき、モモはきゅうにじぶんの中にふしぎな変化がおこったのを感じました。不安と心ぼそさがはげしくなってその極にたっしたとき、その感情はとつぜんに正反対のものに変わってしまったのです。勇気と自信がみなぎり、この世のどんなおそろしいものがあいてでもまけるものか、という気持ちになりました。あるいはもっと適切に表現すれば、じぶんにどんなことがふりかかろうと、そんなことはちっとも気にかからなくなったのです。


みんな、頑張ろう。


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