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あなたの方がよっぽど、

ユリさんは正しい。私だってその正しさを同じ感覚で飲み込みたかったのに、それができないのはきっと私たちの何かが徹底的に違うからだ。


「初めまして、片岡ユリです。なんだか名前の響きが似てますね。よろしくお願いします」
年下の私に対しては深すぎるくらいのおじぎをしたユリさんは、韓国ドラマのヒロインの敵役に出てきそうな人だった。すらっとした体型が目立つネイビーのワイドパンツ、涼しげな奥二重、いかにも社交辞令といった感じの弧を描くローズピンク。あーヤバい、怖い人かもと思いながらお辞儀をしたことをよく覚えている。

実際、ユリさんは全く怖くない訳ではないものの、第一印象よりは全然怖くなかった。私が知らない・分からないことに対して怒ることはなく、過去と同じことを指摘する時は少し声のトーンがキツくなるが、それはこちらが完全に悪いので仕方ない。打ち解けると業務中にちょっとした冗談も言うし、ポーカーフェイスかと思いきや、結構すぐ顔に出る。
苦手なのであろう、営業課の小山さんと話している時なんか分かりやすく表情筋が死んでいて、隣にいると笑ってしまいそうになる。本人曰く人見知りらしいので、初対面の時の硬い笑顔はおそらくそれが発動していたのだと思う。妹気質の私は美人で仕事ができて酒も強く、サバサバした先輩にすぐに懐いたし、ユリさんが私に懐かれてまんざらでもないのは表情や態度で明らかだった。


「んー、でも、仮にこのまま独身だったとしても、毎日それなりに楽しく過ごしていける自信はあるんだよね」
美味しそうに4杯目のハイボールを煽った後に発せられた言葉に衝撃を受けた。卑屈なコメントを避けようとしたら、「かっこいいです」とか細い声で呟くことしかできなかった。

物心ついた時から、ひとりが苦手だった。
母親曰く、目を離すと鮮魚コーナーの魚を触ろうとしたり、試食を配るおばさんに話しかけていたりした姉に対し、私はぴとーっと母か姉にくっついていたから困らなかった、らしい。
私の前を歩く姉の二つ結びについていた、透明な球の中にビーズの入った髪飾りがしゃかしゃかと鳴る方に、小さな歩幅で一生懸命ついて行っていた記憶が、朧げながらある。

福岡の実家から通える大学を卒業し、就職と同時に上京、一人暮らしを始めても、ひとりが苦手なのは変わらず、静かすぎるのが嫌になると、見たくもないテレビを小さい音量にしてつけっぱなしにしていた。
だから、彼氏のたっちゃんが「一緒に住む?」と聞いてくれた時は飛び上がるほど嬉しかった。独り言を放り投げてもしんと静まり返るだけの部屋から脱出できると思うと、面倒な荷造りも全く苦ではなかった。

結婚にはずっと憧れがある。結婚というか、家庭を持つことが憧れだ。
私は母といわゆる友達親子だから、できれば娘を産んで友達のような親子になって、いずれ母と私のように一緒にお酒を飲んだりしたい。そのためのステップとして結婚したいかと言われれば迷わずにYESと答えられるが、その相手がどうしてもたっちゃんがいいかと言われるとよく分からない。よく分からないけど、たっちゃんと結婚するのが、私の憧れへの一番の近道だと思う。
前職の同期で、人となりも仕事ぶりも知っていて、金銭的な価値観が近くタバコも吸わず、家事も一通りできる。スナック菓子が大好きなところと、全体的に我慢が苦手なところは子供っぽいけれど、私が友達と飲んでべろべろになって帰ったら、まったくもう、と言いながらお水とメイク落としのボトルを渡してくれる。結婚するにはその優しさだけで十分な気がした。


「金岡さんの彼氏がナンパしてるところを見た」
ユリさんが文字通り苦虫を潰したような顔で言った時に、一番最初に思ったのは「めんどくさいな」だった。
このままいけば、なんとなく年内には結婚できそうだったのに。そうしたらうまくいけば20代のうちに子供だって産めそうだったのに。
先週結婚式を挙げたチハルから婚姻報告を受けたとき、結婚の決め手は?と聞いたら、「うーん、勢い!」と笑いながら言っていた。相手の信頼度を下げる情報は、大事な"勢い"を大きく鈍らせる。

我慢の苦手なたっちゃんのことだ。酒好きな私が結婚式に行ってさっさと帰って来ることがないのも分かっていて、目先のにんじんに目がくらんだのだろう。
あの日、日付が変わってからご機嫌で帰った私に「楽しかったみたいだね」と言いながらいつものようにお水とメイク落としのボトルを渡してくれたということは、その程度のお遊びだったはずだ。

でも、知ってしまったものを知らなかったことにはできない。もし仮にたっちゃんが私の理想を詰め込んだ100点満点のプロポーズをしてくれたとしても、きっと脳裏には苦々しい顔をしたユリさんが浮かんでしまう。それさえなければ、私だって100点満点の喜び方ができたのに。たっちゃんのアホ。お前が有楽町線沿いでナンパなんかするから、私のことを大事に思ってくれている先輩に八つ当たりしちゃったじゃねえか。嫌われたくない、大好きで大事な先輩だったのに。

ユリさんは私が蔑ろにされているようだと言った。ユリさんは正しい。多分私はナメられているのだ。少しの浮気なんかには気付かないだろうと。(実際気づかなかった訳だけど)それが癪じゃないと言えば嘘になるが、許せないほどではなかった。
だって、結局私との家に帰ってきてるし。先週末から今日までの間、帰宅時間はたっちゃんの方が早い日もあった。そうでない日も20時半には帰ってきていた。そんなに器用なタイプではないから、多分その日だけの遊びだと思う。
じゃあ別によくない?でも、そんなロクでもない遊びをする男と結婚に向かって進んでいいの?じゃあ別れた方がいいの?家も引き払って、ゼロから結婚できそうな相手を探すの?また独り言が響く部屋に戻って、テレビを小さい音でつけっぱなしにするの?

ああめんどくさい。考えるのすらめんどくさい。浮気されたと聞いて、悲しみとか怒りよりも"めんどくさい"が出てくるのは変なのかもしれないが、めんどくさいものは仕方ない。
めんどくさいから、あらゆることを飲み込んで、私はきっとユリさんが通せんぼをしようとしている道を進むことになると思う。きっと呆れられるけど、地球上に自分が生理的に受け付けられる範囲で、私のことを尊重してくれる人が絶対に存在することの保証などどこにもない中で、あの部屋を出るのは、ちょっと、しんどい。

勝手な八つ当たりに逆ギレせず、心配そうな目で私を見るユリさんに申し訳ない気持ちになる。ユリさんは優しいし健全だ。ひとりでも不安にならずに立っていられる人の余裕なのかもしれない。いいなぁ。
っていうか、女同士でも子供が産めたらよかったのに。たっちゃんとの子供より、ユリさんとの子供の方が賢くてしっかりしてそうだ。食の好みはユリさんとの方が合うから、子供が大きくなればみんなで美味しいものを食べながら、お酒を飲める日が来るかもしれない。え?それって私の憧れでは?あーあ、子供ってなんで男女でしか作れないんだろう。

ユリさんは私のことを大事に思ってくれていて、私はたっちゃんよりユリさんのことを尊敬しているのに、気まずくなってしまった。
ごめんなさい、あなたの言うことをまっすぐ受け止められるような人間じゃなくて。私、あなたの方がよっぽど…なんて、とても言えやしない言葉を、温くなったビールで飲み込んだ。


ユリさん視点のお話はこちら↓
https://note.com/samidare_lent/n/n37eca5f54957

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