人は人を羨んで仕方ないという話
「人と自分を比べること」
それは、自分にとって糧にも重荷にもなった。
高校2年生のある日、英語の授業。
僕は、先生からクラス全員の前で名前を呼ばれた。先日行われた英語の試験の成績が非常に良かったらしい。
僕は優越感にも似た高揚感に包まれた、覆われた。それから数日、僕はそれから逃れることができなかった。
「他人と自分を比較して悦に入った」
大学生になったある日。僕は、数名の友人とグループディスカッションを行うことになった。考えた策や論理がことごとく崩され、心までも砕かれた。
「どうして自分は彼のようにできないのだろう、彼女だったらできるのに」
感じたことのない劣等感と羨望に襲われた。
「他人と自分を比べて閉じこもった」
リアルな人生は、ご都合主義の漫画やアニメのように「救ってくれるヒーロー」も「心に刺さる言葉」も、そう簡単には登場しない。
事実は小説よりも奇なり。
残酷さが奇に含まれるか否かはさておき、奇跡的と勝手にポジティブに捉えることにしよう。
事実は小説よりも奇跡的なのだ。
元来、僕は落ち込んでもすぐに忘れる、それこそ超絶ご都合主義の人間である。そうゆう意味では、この事実だって奇跡的だろう。
そんな取り留めもないことを考えながら生きていくうちに、僕は憧れだった海外留学に行く。
世界は広かった…ただひたすらに…
想像の何十倍も何百倍も。物理的にも思想的にも。僕は、自由を感じ、多様を感じた。同時に、日本で培ってきた理想が崩れた。
オーストラリア人の友人が言った。
「俺たちが気にするのは年齢でも肩書きでもない。その人自身の考えや性格だ。それ無しに尊敬などありえない。」
タイ人の友人は言った。
「何のために働いてるの?会社のため?違うでしょう?自分のためじゃないの?じゃあ、自分のしたいことができない会社にいる意味ある?」
チリの友人は言った。
「俺は28歳だけど、君はまだ20歳。俺はこの歳で、まだ学生だ。何度でも人生なんて修正可能だよ。」
「人と自分を比べること」
比べて一喜一憂していた自分がちっぽけに思えた。思えたけれど、完全に比べないことなんて不可能だ。薬も飲み過ぎれば毒になるように、何事も柔軟に取り入れることが大切。
今回学んだ教訓は、ほどほどに「自分と他人を比べること」と「価値観に優劣なんてないということ」。
比べて落ち込んでも、それを糧にすることを忘れないように。
ということを述べつつ、僕は今日もプレゼンテーションを行う。
「あ〜。学校の一軍みたいなノリの子がいる。圧倒的に自分にはない論理力のある子も。話をまとめるのがうまいなぁ…」
でも、僕には僕の良さがあって、だから世界は面白いんだと考えると、少しだけ気が楽になる。
これが、成長なのだろうか?
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