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秋元康の「青春」の描き方

青春とは二律背反(アンビバレント)な状態だ。
そう定義しているかのように秋元康は相反する言葉の組み合わせで青春を表現している事が多い。

「10月のプールに飛び込んだ」
「何度目の青空か」
「広げられない傘を持ってる」
「無理をして微笑む幸せなんていらない」
「迷うことなくどこを目指してるんだろう」
「このまま100年待てばいいことあるかもね」
「独り占めしてたはずの不眠症が私だけのものじゃなくて落胆した」

ざっと挙げてみただけなので、この他にも沢山あると思うが、やっぱりこういう表現は心のどこかに引っかかるように思える。
10月のプールには普通は飛び込まないし、今日の青空が人生何度目かなんて誰も数えてない。
でも、そんな10月のプールに飛び込めるような無敵感があるのが青春であるし、当たり前にある幸せを無下にしているのが青春である。

青春をどう表すか選手権があったら、全部のフレーズが優勝してるくらい的確だと思う。
やっぱりワードセンスが凄い。
「広げられない傘」って、本来広げることの出来る傘が広げられないって、まさにアンビバレントな心の比喩だと思うし、「幸せ」と「いらない」は本来は結びつかないと思うし、「迷うことなくどこを目指してるんだろう」で、大人にやらされてる感じ、自分の気持ちが無視されてる感じを表現してると思うし、「100年」「待つ」って普通は結びつかない言葉で、諦めを表現してると思うし、「不眠症」を「独り占め」してるって、青春時代特有の悲劇の主人公でありたいというある種の特別感を的確に表現してると思う。

このように秋元康の青春の描き方は「青春」を二律背反な状態として、それを表現する為に、本来は相反する意味を持つ言葉を組み合わせてると思う。

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