サマ子

小さい頃からずっと疑問に思ってて大人になっても答えが見つからない問いに向き合い続ける様…

サマ子

小さい頃からずっと疑問に思ってて大人になっても答えが見つからない問いに向き合い続ける様子を実況中継する

最近の記事

ミシェルウエルベックの『滅ぼす』を読んで考えた①

物語からしか得られない癒しがある 人には2種類ある。信じることができる人間とそうでない人間。この物語は信じることができない人間のためのものである。 何を信じるのかというとそれは純朴に“ある“ということに他ならない。 “ある“がまずなければこの世の全ては足場をなくし無価値で不安定なものとなる。 “ある“とはかつては神が担保したものだった。 しかし神なき今、人は足場のなさに耐えられず信じられる正しさを作り上げてしまう。 今回の小説でそれらは、主人公の妹の信じるキリスト教であり、妻

    • 『君たちはどう生きるか』を観て考えた②

      とはいえそれは他人の夢なのですしかしどんなに天才的なアニメーション技術を持って私たちに感動を与えようとも、それは他人の夢なのです。わたしもあなたも皆それぞれの現実に戻らなければならない。もう一度生まれ直すために私たちは夢を見て冒険し、また現実に戻り何もなかったかのように夢を忘れて生きていかねばならない。 これは矛盾おじさんこと宮崎駿がよく発言していることでもある。アニメばっかり作ってるのにアニメばっかり見るなって事あるごとに言っている。積み木を積むことを選ぶなと。 しかしで

      • 『君たちはどう生きるか』を観て考えた①

        こんな話だったよ、などと言えないし言うつもりもないひと言で言えば希望の映画だった。どうしようもない理不尽に対してやけっぱちになって自傷したり自虐したり(悪意で自分を殴るマヒト)、他人の言葉で理論武装しニヒリズムに陥り深淵に飲み込まれたり(ペリカン)、考えることを諦めて心と体の声に蓋をして仮初の正しさを叫ぶ世間に同調してみたり(インコたち)、現象しか興味のないリアリスト(父)、そんな全ての絶望につながるトラップを否定せず尊重しつつも慎重に回避しながら、私は、他でもないわたし、た

        • なぜポールヴァーホーヴェンが撮ると女体がエロくないのか問題〜ベネデッタを観て考えた①〜

          先日育児の合間をぬってポールヴァーホーヴェン監督の最新作「ベネデッタ」を観てまいりました。 敬愛する監督の1人で、「スターシップトゥルーパーズ」はわたしの人生に燦然と輝く不朽の名作として刻まれているので非常に楽しみに思っていました。(いい奴が1人も出ないすごい映画、クズと虫が戦って血を撒き散らすだけ) がしかしそんなに面白いとは感じず、なぜだろうと2週間ほど思いを馳せていたらいろいろわかってきたので雑記として書き残しておこう。 わたしはヴァーホーベン監督の即物的でリアリスト

        ミシェルウエルベックの『滅ぼす』を読んで考えた①

        • 『君たちはどう生きるか』を観て考えた②

        • 『君たちはどう生きるか』を観て考えた①

        • なぜポールヴァーホーヴェンが撮ると女体がエロくないのか問題〜ベネデッタを観て考えた①〜

          神と暴力〜カニエウェストを考える④最後〜

          神の愛とはなにかなぜ弱きもの虐げられたものにとってキリスト教は親和性が高いのか、それは神とわたしが直接結びついているからなのでは、と推測する。 世界にあってわたしより上にあるものは神のみで現実での人間関係は横並び、神の下で人は分け隔てなく神と通じる権利があり、その意味でみな平等である。神は1人だが、すべての神を信じる人間と個別に契約している。そして全ての人が信じる神は1人であるが全て異なる。 極論を言えば世界には神とわたししかいないのであり、それゆえに圧倒的に自由であるという

          神と暴力〜カニエウェストを考える④最後〜

          神と暴力〜カニエウェストを考える③〜

          虐げられることと神の関係 関東の半グレ集団、怒羅権(ドラゴン)の創設初期メンバー汪楠の本を読む。彼とカニエの共通点と相違を思う。 汪楠は中学生のとき中国残留孤児の子として日本の公立校に転入する。苛烈ないじめと差別による筆舌に尽くしがたい人間的尊厳の破壊。幼い彼らは自らの尊厳を守るため集まり、そして闘った。弱者であるゆえ、問答無用、完膚なきまでに残忍な暴力を行使した。 しかし暴力というものは人を思ってもみないところへ連れてゆく。始まりは自己の尊厳を守るためであっても、暴力はいつ

          神と暴力〜カニエウェストを考える③〜

          神と暴力②〜カニエウェストを考える〜

          神との邂逅入院中のわたしの生活は図らずしもキリスト教やユダヤ教、イスラム教などの一神教の教えに似ていた。毎日のルーティンを固定し規則正しく過ごす(刺激的なことはしない)、土日は緩めて気ままに過ごす。ここにカニエウェストのゴスペルアルバムが親和したのは偶然ではなさそうだ。 ついでに言えばわたしは神に出会ったことがあった。20歳前後のなんでもない日。前日にパンクした自転車には乗らず駅まで20分の道のりを歩いていた。よく晴れた春の暖かな風のない完璧な午前だった。突然すべてのものが

          神と暴力②〜カニエウェストを考える〜

          神と暴力①〜カニエウェストを考える〜

          私がカニエウェストと出会うまで 第二子妊娠中、子宮頸管無力症による切迫早産で3ヶ月入院した。夏の終わりから冬の始まりまでの最も美しい季節を私は病室でただ横になって過ごした。 寝たきりの妊婦の体重が増えないようコントロールされた病院食に心躍るはずもなく、wi-fiもない。この社会と隔絶された異常な退屈は私にとって重要な経験であった。なんといってもテレビでやっていたローランドエメリッヒの『ホワイトハウスアウト』を見て感動し、号泣したのだ。ありえない。まさかわたしが!!自称映画好き

          神と暴力①〜カニエウェストを考える〜

          植松聖の呪縛から解き放たれた日の話 終わり

          植松の起こした事件は胸糞の悪いものだった。でも最悪で最低だと言うには何かが私に欠けているように感じた。 彼のことを考え続けた。そしてある日わたしは私の中の差別を無くそうとしていたことに気づいた。そうではないのだ。大事なことは子が産まれて健康でスクスク育つことにホッとするような形で、差別が必ず自分の中にあるということを受け入れることだったのだ。 何かを見て気持ち悪いと思うような自然な心の動きによる差別。その差別に自覚的にならなければ認知バイアスによって価値がないという物語を受

          植松聖の呪縛から解き放たれた日の話 終わり

          植松聖の呪縛から解き放たれた日の話 その2

          植松の主張は大きく2つ。 重度知的障害者は ①無益である ②不幸である よって、安楽死させたほうが良い というものである。 ①益とはなんだろう。この世に生を受け役に立つことをして死んでゆくことだろうか。長い目で見れば人類にとって益のある生をおくっている人などほんの一握りだし(大抵は凡人として死ぬし多少の成功を収めたとて人類への益という観点からは価値はないと言っていいほど少ない)、地球や宇宙にとって益のある人生をおくったものなどいるのだろうか(地球や宇宙にとっての益ってそ

          植松聖の呪縛から解き放たれた日の話 その2

          植松聖の呪縛から解き放たれた日の話 その1

          相模原障害者施設殺傷事件がニュースで流れたあの日、わたしは初めての育児を楽しんでいた。産まれて間もない子と同じ時に起き、乳をあげ、同じ時に眠るという現実か夢かわからない社会と隔絶されたフワリフワリとした毎日を過ごしていた。(控えめに言っても子が生まれて1ヶ月の間のこの時間は人生最上の多幸感が味わえる) この事件は以後5年もの間、私を悩ませ続けることになる。それは彼が確固たる思想に基づいて犯行を犯したことによる。(それは上告をしなかったことからよくわかる) 彼の思想を要約する

          植松聖の呪縛から解き放たれた日の話 その1

          クソofクソ、この肥溜めみたいな世界で子供を産み育てることについての雑記

          これはもう誰に何と言われようと揺るがない私の世界観なので口出し無用なのだが、基本的に生まれることは不幸なことなのである。どう考えても喜びの総量に対して苦痛の量が多すぎる。 欺瞞に満ち、まともなやつほど奇人扱いされ、妥協迎合できない者は気を病むしかない。どう考えたって生まれないことが最善なのは自分のあたまで少し考えれば誰でもわかる。 しかし生まれてしまった私は、子を作り育てている。欲しくて、身籠り、産み、育てたくて育てている。完全な私のエゴで生まれてきてもらった子どもにどんな

          クソofクソ、この肥溜めみたいな世界で子供を産み育てることについての雑記