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神と暴力②〜カニエウェストを考える〜

神との邂逅

入院中のわたしの生活は図らずしもキリスト教やユダヤ教、イスラム教などの一神教の教えに似ていた。毎日のルーティンを固定し規則正しく過ごす(刺激的なことはしない)、土日は緩めて気ままに過ごす。ここにカニエウェストのゴスペルアルバムが親和したのは偶然ではなさそうだ。

ついでに言えばわたしは神に出会ったことがあった。20歳前後のなんでもない日。前日にパンクした自転車には乗らず駅まで20分の道のりを歩いていた。よく晴れた春の暖かな風のない完璧な午前だった。突然すべてのものが躍動して見えた。草木や花の色はこの世のものとは思えないほど鮮やかに艶やかに発色し、今にも動き出しそうな生物のようなエネルギーを感じた。それは時間にしておそらく1分か2分。体感としては10分くらいの出来事だった。地面からも温かな地球の動きを感じたし、空の青さは地表まで降ってきてわたしを取り囲んだ。周りの全てのものからでてくる生命力としか言いようのないパワーで信じられない多幸感に包まれたひとときだった。
この現象は20歳前後の多感な時期にある一種の認知のバグのようなものだと思う。ボリスヴィアンの『泡沫の日々』を数日前に読み終わったのも関係しているかもしれない。しかし、わたしに信仰の文化やバックボーンがあったなら、この体験はまさしく神との邂逅だと思ったのではないか。しかしわたしの宗教的バックボーンは他の大多数の日本人と同じ葬式仏教なのですぐに神には結びつきはしなかった。
ただ、この出来事を通してこの世は脳が知覚しているだけでほんとうは思ったより深淵で何か人智を超えた偉大なもの(The Great)の存在があるのでは、と考えるようにはなった。


神についての考察


カニエはワイヤーをいれるほどのひどい交通事故から回復し神に出会ったと語った。
ハイデガーやヴィトゲンシュタイン、シモーヌヴェイユなどの哲学者の多くも神秘体験を通して邂逅を果たしている。
しかし哲学者は、また哲学者でなくとも真面目に自分とこの世界について考えている人間であれば神に出会うのは必然に思える。
なぜなら考えるという行為自体、理性自体が突き詰めれば『在る』という前提からはじまるからだ。何かが『在る』としなければ考える行為は始まらない。考えるというのは、理性を絶対視するのは、神(一神教的神)を信じることとほぼ同意である。
キリスト教が『在る』についての宗教であるとすると仏教は『無』についての宗教であるようにおもう。全ては関係性においてのみ規定されるもので、その世界の外には何も無いのだ。
悟りとは無についての深い理解なのではないか。

日本人の宗教観


今世界を駆動させているのは科学、理性だ。これはほとんどの国がある意味でキリスト教を支持しているということとあまり変わりはないように思う。もちろん私たち日本人も。
統一協会の集団結婚やオウム真理教、このような事件から日本人の宗教に対する忌避感というのは異常にあるような気がする。「それって宗教っぽくない?」という発言が揶揄の意味をはらんで聞こえるのは日本人くらいのものではないのか。
理性的であることと神を信じることはそんなに遠く離れたことではない。
宗教を忌避し、理解を深めないということは人としての豊かさを手放すことでもある。徹底的な個人主義に陥り貧しい精神性の中生きるということになる。

わたしの信仰

なんらかの偉大なものをわたしは前提としており、わたしは偉大なものと繋がっている。その意味において全ての人間は平等であり、だから誰に頭を下げる必要もない。わたしはただわたしであるだけで、あなたは親だろうが先生だろうが上司だろうが金持ちだろうが障害者だろうがいじめられっ子であろうがあなたであるだけ。


ここまで考えてくると、やはりキリスト教は弱者においてより強固な信仰を獲得する構造にあるように思えてきた。特権階級にあるものが全ては平等とは思いたくないだろ普通。虐げられたものが這い上がるためのストーリーがキリスト教にはある。ここがカニエに繋がってくるはずだ。

続く


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