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神と暴力〜カニエウェストを考える③〜

虐げられることと神の関係


関東の半グレ集団、怒羅権(ドラゴン)の創設初期メンバー汪楠の本を読む。彼とカニエの共通点と相違を思う。
汪楠は中学生のとき中国残留孤児の子として日本の公立校に転入する。苛烈ないじめと差別による筆舌に尽くしがたい人間的尊厳の破壊。幼い彼らは自らの尊厳を守るため集まり、そして闘った。弱者であるゆえ、問答無用、完膚なきまでに残忍な暴力を行使した。
しかし暴力というものは人を思ってもみないところへ連れてゆく。始まりは自己の尊厳を守るためであっても、暴力はいつか歪んだ権力となり、強奪、殺人などの犯罪と分かち難く結びついてしまう、そんな性質を持っている。あとの怒羅権は私たちの知っているとおりである(詳しくは汪楠さんの本を読まれたい)
彼は神をもたなかった。神がもしいるならなぜ私たちを助けないのだ。

カニエも若い頃、親の仕事で中国に住んでいる。ブラックパンサー党に所属していた父親と離別し英語教師である母と南京へ移住。中国の黒人なんてマイノリティ中のマイノリティ。10歳の若きカニエはつらいいじめを経験したと語る。このとき絵を描くことをはじめカニエの文化芸術的才能が花開いてゆく。彼には才能という力があった。そして彼にはイエスがいた。

キリスト教神学を考えるとき暴力か非暴力か(マルコムかキングか)を分けるものはゴルゴダの丘でのイエスの矛盾であるように思う。
ユダヤ教から迫害され十字架にかけられると知りながら行動する愛のイエス
十字架にかけられ、神になぜわたしを救わないのかと問うイエス
ここには明らかな矛盾がある。
この世の地獄にいる人は普通に考えて、もし神がいるのならなぜわたしはこんなに辛く苦しい日々をおくらねばならないのか。と思うはずだ。なぜなんだ。理由はなんだ。普通はそう思う。やはり神などいないのだ、わたしの苦しみは除かれないのだから。わたしの苦しみはわたしがいま解消しなければならない。わたしを苦しめる全てのものを痛めつけ殺害し駆逐せねばならない。そうして暴力がはじまる。とてもわかりやすい。その通りだ。マルコムはこの点が受け入れ難くイスラム教徒となった。
この苦しみの元を断ち切らねば。断ち切るためには暴力も辞さない。やられたのだ。やられたのだからやり返すよりほかない。

カニエの二面性

この暴力性、これはカニエの攻撃性に現れている。虐げられた怒りがまずある。そして彼の攻撃性の強い言葉たちが発現する。

しかしカニエには相反するイエスへの愛もある。それが彼の精神を不安定にし彼の音楽の独自性を生み出す根幹のアンビバレンスであろうと推測する。
彼はつらい現実を与え続けるイエスとその愛に本気で向かい合っているのだろう。


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