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『ピカソ論』罠か豊穣か、はたして

ロザリンド・E・クラウス『ピカソ論』(松岡新一郎・訳)青土社 2000年

ロザリンド・E・クラウス:『オリジナリティと反復』(原著は1985年)では先鋭的に美術における過去の評価軸を一転させ、構造主義・ポスト構造主義の潮流に則って刺激的な格子|《グリッド》や、コード、オリジナルとコピーなどの概念を駆使しシリアス・クリティシズムを貫いていた。
一転、本書では資料分析、諸説の併記、さらには用心深さをもってピカソの作品の様相を浮き彫りにしている。

ここでは第1章「記号の循環」を中心に、いくつかのキーワードを拾おう。

新聞記事のコラージュ

きんか、紙か」。ピカソのコラージュ作品について。作品の永続性を考慮するならば、新聞やマッチなどの卑近な紙素材は適さない。それは褪色し、劣化する。

高級芸術が美や徳といった時を越えた価値に向かって言葉を投げかける際、それは時のために色褪せたり、侵食されることのない、金のような素材を求めつつ、自らの発した言葉を硬い花崗岩に振り込もうとするだろう。油彩、ブロンズ、大理石といった芸術家の選択は、形式の永続を保障し、そこに表象されたものが時を超えた存在であるという前提を補強することに他ならない。 紙は芸術のシステムにおけるアキレスの腱であり、光や虫、カビなどによって朽ちてしまう。そしてあらゆる繊維の中で最もこうした攻撃に対して無力なのは新聞紙だ。

ロザリンド・E・クラウス『ピカソ論』p73

新聞紙を用いる、それは高級芸術へのしたたかな抵抗、アバンギャルド。
そう思いたいが、卑俗な紙切れをもちいて高級芸術の金へと変貌させる、その技量の見せつけ、ピカソだからこそ可能な傲慢・剛腕である可能性もまた否定できない。

誰の声か

政治、戦争、社会、広告などの記事が切り貼りされているが、これは誰のなのか? 文字通りピカソのメッセージなのだろうか(p43)。作品に使用された新聞記事、レイアウト、またその意味をめぐる諸説を列挙しながら、クラウスは慎重に論を進める。
まずは造形として、切り貼りされた紙片はたくみに静物を描き出している。その空間は「風通しが良い」(p44)。しかし視線が誘導された先に、突然、活字()がおどり出る。それは、新聞という媒体を暴くために仕組まれた装置。

二重の仕掛け

物としてのかたどり(記号)と、文字情報シニフィエとしての記事。これら二重に仕掛けられた情報が、接続と切断を交互に繰り返し、鑑賞者の視線と思考をくるくると循環させる。それがピカソのコラージュ作品の内部機関における原動力だ。
クラウスは、バフチンによるドストエフスキー分析を引き合いに、同様な説明をほどこす。すなわち、ポリフォニー(多声音楽)と、そのモノローグ化。対話する声が他の声に変わり、劇的な変化をもたらすという。(p51)
「二重化の戯れ」(p53)、「再-刻印」とも。
「再-刻印」はジャック・デリダの用語。相手に向かって折り返しつつ、合一と差異という矛盾する二つを合わせ生じさせる関係のこと。(p80)伝統的な意味を手放し、再度意味づけを行うこと。

図と地

「輪郭が〈図(figure)〉としても〈地(ground)〉としても機能し、作品全体の複雑さを操作する装置となっている」(p52)。いくつかの図と地の反転の例。キュビスムは、図/地の揺れをともなって立ち現れる。(p192)そこへ浮上せずにはいられない「」(新聞紙の文字)の問題。
  構図 ⇄ テクスチャ ⇄ テキスト
鳥であり、かごであり、くるくると回せば鳥籠の鳥にも見えてくる。このとき、表と裏のあいだを漂っているものは何か?

色彩はどうか

色彩でも同じような仕掛けが見られるという。例のカクカクした単調な色合いの分析的キュビスムから、ピカソの意識は色彩へと開いていく。(p170)点描のある作品を例に、ピカソが点描手法を皮肉混じりの程度にしか取り入れなかったことも踏まえ、

色彩分割に従う面々が唱える網膜刺激の指標としての色点とは別物だ。光を捕食関係に分解しようという試みとは無縁なのだから。むしろ、色彩分割の記号を色面と結びつけて再生産し、一つのシニフィアンへと、色彩の与える感覚ではなく色彩の記号へと、転換しようという試みと見なすべきだろう。

ロザリンド・E・クラウス『ピカソ論』p178

と指摘している。

オートマティックな方へと傾斜する本来のキュビスムとは距離をおき、ピカソは徹底した独自性(ピカソの生き様、署名、刻印を必ず作品に内包させること)を実践した。

反動形成

「それが防衛したはずものを密かに演じてしまう兆候として。」(p183)
ピカソの「反動形成」、つまり引き裂かれたものを引き裂かれたまま、強引に抱き寄せようとする身振り。

禁止された欲望がそれとは反対のものに変わるーー肛門性愛が清潔さや身長差の強迫観念となるようにーーことで、禁止ゆえの危険から身をかわし、同時にまた違反行為を密かに続ける可能性を保持する、弁証法的な構造であるといって良い。(中略)こうした転換の体系がピカソによる模倣の操作を説明するためのパラダイムとなるのも、まさにこの二重構造に於いてに他ならない。

ロザリンド・E・クラウス『ピカソ論』p112

それは彼の創作の特徴でありながら、やむにやまれぬやまい、あるいは哀しさのようなものを私は感じてしまう。
権威への抵抗を実践していたはずなのに、自らの天才が自分自身を権威の側に押しやってしまう。著名になることで自らのあずかり知らぬところで肥大していくもの…に抗して己の芸術を貫く。その困難さを背負わされてきたのもまたピカソなのだ。


ピカソの絵を、罠だらけの野山と見るか、豊穣で変化に富んだ丘陵と見るか
それは鑑賞者われわれの自由である
しかし、その景色にも天才の不安や寂しさがあるのを感じてほしいと思う



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