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努力って、わりと大事らしいよ。そして簡単らしいよ。


みなさん、努力は報われると思うでしょうか。努力はした分だけ、自分に返ってくるのでしょうか。サボった分だけ、見返りがあるのでしょうか。

僕は、あるかないかでいえば、あると思います。
いや、絶対にあると思います。絶対に報われると思います。



てか、努力ってすげえ安い言葉だと思うんです。何か目標に向かって、ある程度作業をしてそれが何かしらの形になればそれは努力なんですよ。
財布からお金が落ちたから拾うとか、毎日10時間勉強して志望校目指すとか、
これ全部努力なんですよ。やばいですよね。みんな努力してるんですよ。



僕は、世間で言われるところの「Fラン大学」というところに通っています。僕は今の大学に行きたくはありませんでした。別に嫌だったわけではないんですが。理想だけでいったら、関関同立とは言わないから日東駒専ぐらい行きたかったなぁと。
でも、僕は絶望的に勉強してこなかった。絶望的に勉強が出来なかった。たぶん、人生で最後に1時間しっかり勉強したのは中学の夏休みの宿題のときだと思う。それくらい酷い。

小学校のときは、めちゃくちゃ頭がよかった。クラスの皆から「漢字博士」と持て囃された。テストはだいたい100点。98点がものすごく悔しかった。小5の算数で少しつまづいたが、それでも周りよりは断然出来ていたので何の心配も危機感も抱かなかった。とにかく「出来る自分」「褒められる自分」が嬉しかったし、それが崩れることなど考えようもなかった。

中学に入り、勉強は難しくなった。テストで30点台を取った。でも何だかんだで学年で真ん中やや上ぐらいだったから、これでいっかと慢心していた。そして高校。流石に頭がいい人が多かった。赤点も取りまくった。流石にこのままではまずいと思い始めた。

しかし時すでに遅しだった。恐ろしいほど、勉強の意欲が湧いてこない。予習を初めて3分。頭が痛くなる。スマホを開きたくなる。落書きを始める。結局スマホを構い始める。習慣づいてないとか、そんな次元の話ではなかった。
そんなこんなで下の上ぐらいを行き来していた僕は、ろくに将来の夢も志望校も決められないまま、担任に「推薦入試やってみたら?」と言われ、特に何も調べないまま何となく受験した。さすがに少し勉強した。ほんの少しだけ。そこら辺の受験生から見たらおやつカルパスとかココアシガレットレベルの量だったかもしれないが、それでもやってみた。僕にとってその「努力」にかかるエネルギーはなかなかにでかかった。僕は「努力」をしたのだ。形式上、僕はめちゃくちゃ「努力」をした。

結果、合格した。しかも成績上位だったので奨学金が一部免除になった。ぼくの「努力」が報われた瞬間だった。



人それぞれ、努力をするときに使うエネルギーは違います。
最初にあげた、「落とした金を拾う」と「毎日10時間勉強して志望校合格を目指す」では、明らかにやってることのレベルが違います。でも、中には金を拾うことさえすごいエネルギーを使っちゃう人がいて、何だかんだ言って本当に毎日10時間勉強しちゃう人がいるわけです。

冒頭でFラン大学通ってるとか行ってましたが、僕は頭がいいと思います。そこら辺の大学一年生よりは頭いいと思います。
「漢字博士」とよばれた所以。僕は小3から小4にかけて漢字辞典を異常なほど読み漁っていました。トイレに漢字辞典を常備させていました。漢字を覚えるためなら、どんな努力も厭わなかった。そして、その努力は、僕にとって細胞サイズのエネルギーを消費するだけだった。
他に、世界の国旗と位置、徳川15代将軍、地元鳥取県の全ての駅とその順番、プロ野球の年度別優勝チームと年度別首位打者、幼少期の僕は、好きなものと覚えたらカッコ良さそうなものはだいたい覚えた。
あと僕は、記憶力がいい。何年前の何月に家族旅行をして、何年の何月の何時に母親がバレーで前十字靭帯を断裂して、何年の何月に今の家に引っ越して、みたいなのを全部記憶している。学習発表会では、自分のはもちろんのこと他の子のセリフもだいたい覚えた。あと雑学とか一般常識みたいなものも好きでたくさん覚えた。

僕は頭がいい。頭がよくなるためにする努力は大体してきた。ただ、「入試科目として使う教科や、それに必要な思考、理屈、知識」だけ覚えられなかった。それを覚える努力が出来なかった。だからFランなのだ。
どこかもどかしい気もするが、これが日本が、世界が何十年何百年何億年と歴史を紡いできたなかで見つけたもっとも合理的な社会の回し方。学歴社会という概念。どんなに頭がよくても、入試が出来なきゃそいつはバカなのだ。だから僕はFランに入学して、「南海トラフ」について何にも知らない同級生を見てただただ驚愕したりしている。



結局何が言いたいのかというと、「努力」には、単純に作業量が多い、少ないという違いの他に

人によって得意な努力、嫌いな努力、どうやっても出来ない努力

ってのがあるんです。その得意な努力が「勉学」だった人はいい大学に行きいい職に就く。「毎日10キロ走る」だった人はすげえアスリートになってるかただの健康的な大人になっている。「ヤンキー、ヤクザになる努力」をしてきた人だっているだろう。

人に「もっと努力しなさい」と言われることが人生でたくさんあっただろうし、これからもあるだろう。でも、それを結果的にやらなかったとして、「努力をしなかった」のではなく「努力を出来なかった」のだ。仕方なく出来なかったのだ。

決して言い訳をしたいのではない。この世には、エリートの家に生まれ頭脳も運動神経も顔も優れてそれでいてめちゃくちゃ努力してすごい大学行ってすごい職就いて可愛い人と結婚して幸せに暮らす人もいれば、何の努力もして来ず、ただの引きこもりクソ陰キャニート親の脛かじり虫になりやがる人もいるわけで、
エリート君に出来なくて自分に出来た努力が一つぐらいあるし、脛かじり虫に出来て自分に出来なかった努力だってあるだろう。


努力って、めちゃくちゃ簡単なんです。だって、自分に出来ることは全て努力なんだもん。そして、その努力は確実に何かの形として還元される。絶対に報われる。その還元が「地面にあるお金が自らの手に戻ってくる」なのか「東京大学に合格する」なのかはその人とその時の運次第。


だから、がんばれ。君が出来ることは、全て「努力」なのだ。君が打ち込めること、君が大好きな作業、君が嫌々ながら何だかんだ進めている何か、すべていつか報われる「努力」だから。


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