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"評価される"仕事から、"評価する"仕事へ

仕事が原因で適応障害になったが、正直、外部の環境変化ですべて解決するわけではない、と思っている。


なにがわたしの仕事の手を止めるのか。

それは、「会社のために働いたのに、何も戻ってこなかった」という、被害者意識だ。

わたしの勝手な、ね。自覚してる。


評価"される"から、好ましい部下像を演じる。

評価"される"から、我慢して働く。


冷静に考えてみる。

今の日本の会社で、評価制度でそこまで給与に差がつくかと考えてみたら、差はあまりつかない。

昇格なら別だけど、それ以外の場合は、数千円ってところだろう。

我慢は数千円に見合った労力なんだろうか。

いや、そんなことはない。

といって、別に「サボる」ことを推奨しているわけではない。

時間の使い方は自由だけれど、何の意図もなく「サボる」ことは、自分の人生を適当に扱ってるのと同じ。


他者からの評価は、わたしからは操作不能だ。

今回、わたしがそうだったように。(頑張って働いたのに、からだを壊したらお払い箱だよ)

でも、わたしからの評価については、試行錯誤する余地はたくさんある。

その前に、仕事における「自分の評価」というものが、定まっていないことに気づく。

自分の時間の使い方、なのにね。

この時点で、わたしはふんわりと生きてきたことに気づくのだ。


お金を稼ぐため、の仕事ではある。

でも、わたしの時間を使う以上、なにかしらのポリシーはあっていいはずで、それは会社のポリシーとは別でいい。

演技なぞいくらでもすればいいからね。


わたしの人生だ。

わたしの時間だ。

わたしがわたしのポリシーに則って活き活きと働くことができれば、間違いなく、それは会社の利益につながるだろう。

別に、反社会的なことをしよう、っていうわけじゃないもの。

法律に反せずに、「利益を上げれば」会社は首を縦に振る。

そんなくだらない外側の世界のゲームに、本気になっていたわたしが馬鹿だったのかもしれない。


わたしは、仕事でなにをしたい?

……実は、昔、ちゃんと持ってたよね。

今も、活き活きと働いていた時の気持ちを、思い出せる。

だから、その時に戻ればいいのよ。

わたしが活き活きと働いていたら、外側の評価なんて勝手についてくるのかも?、しれない。

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