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音楽の力を可視化させる『バジーノイズ』

 音楽に心を動かされた経験は誰にだってあるだろう。ある人にとっては勇気に、ある人にとっては救いに、ある人にとっては祈りに。その音楽というものが自分にとってどんなものなのか?それによって、この映画の捉え方は大いに変わってくるかもしれない。

 『バジーノイズ』は音楽の持つ力、音楽というものが人にとってどういうものなのかを可視化した作品と言えるだろう。

与えるか与えられるか

 音楽は与えられるもの。そう、誰かが作ったものを聴くということで成立する人が大多数であるはずだ。しかし、この映画の主人公である清澄はそうではない。聴きたい音楽は自分で作るという行為で触れている(自分の頭の中にある音楽をDTMで再現させる)。そして、レコーダーを片手に自らフィールドレコーディングした環境音に音を重ねて作り上げたものは誰かに聴かせるわけでもなく、ただひとり聴いている(というか、その行為に憑りつかれている)。それは音楽が自分のために存在するものでしかないということ。つまり、音楽というものが生活の一部に、いや、音楽と自分が一体化しているといっても良いかもしれない。そんな清澄の創り出す音楽に同じマンションで暮らす潮が、偶然触れたことから物語は始まる。

 登場する人物は音楽を作る者(与える者)と聴く(与えられる)者だ。というか、この映画に登場する人物は作る側(与える側)の人間がほとんどだ。つまり、リスナー視点ではなく、プレイヤー、クリエイター視点中心の映画である(リスナー視点である登場人物は潮ひとりといってもよいかもしれない)。その二つの視点が交錯していくことで話は進んでいく。

感情を生み出すもの

 この映画において、登場人物の中に生まれた葛藤や揺るがされる感情、そして人との出会いは音楽によって生まれている。そう、この映画に存在するほとんどの感情は、音楽によって引き出されているものだ。音楽を介してすべてが進んでいく。人対人ではなく、人対音楽なのだ。清澄と潮の出会いだってそう。音楽という目に見えないものを通して、あらゆるものが生まれ、繋がっていく。

 作る者の中にだけ存在する音楽は、誰かの耳に届いたときに形を変えていく。そう、聴き手の感情というものが加わることによって。聴く人が増えていけば、あらゆる場所にあらゆる形の感情が存在していき、揺さぶられた感情によって新たな価値観が生まれていく。それはポジティブもネガティブも分け隔てなく生み出していく。それによって人生が変わっていくことだってある。
 空気振動という形で伝わっていく音楽は、感情によって立体化していき、形を変えていく。音楽と感情は常に隣り合わせであり、聴く者の日常を生み出していき、浸透していく。音楽と感情、音楽と日常。それは生活というものに音楽が存在しているということだ。

 しかし、それが時に作る側が思うものと乖離していくこともある。作る側の思いと聴く側の思いが一致しているときの相互関係は当然だが素晴らしい。美しすぎるくらいだ。そこに少しでも溝が生まれてしまったとき、お互い疑心暗鬼になったりする。それがよく見かけるメジャーデビューしたバンドに対してインディの時は良かったとかとつぶやくファンの姿になっていくのだろう。自分だけのものだった音楽が遠い存在になっていく。売れてほしいけど、手に届く存在でいてほしい。ファンの心理は間違っていない。しかし、それは独りよがりの思いでもあるのだ。

 この映画には「ふたりよがり」という言葉が出てくる。これは実に的確な言葉だなと見ていて思った。この言葉こそが、この映画のキーポイントであることは間違いないだろう。ぜひとも確認してもらいたい。

言葉と音楽

 音楽を聴いて、“歌詞が良い”とか“歌詞に元気づけられた”などの感想を耳にする(目にする)ことは非常に多い。もしかしたら、今の時代、音楽は言葉で成り立つと思う人が圧倒的に多いのかもしれない。しかし、この映画では音楽の中の言葉にはほとんど触れられていない。それもあってか、音楽の中に潜んでいる言語化されていない感情をしっかりと楽曲で浮き出させている。感情が音として表れている。言葉はなくともメッセージは伝わるし、人の心を動かすという当たり前のことをごく自然に。そう、音楽そのものが持つ力をストレートに実は描いている。だからこそ、映画の後半部でのとあるシーンがより引き立つのだ。
 
 また、この映画に流れている(作中で作られる)音楽は、清澄の感情の移り変わりと考えてよいだろう。劇中に何度も映し出される波形も音を表すだけでなく、感情の可視化でもあるだろう。そう、すべてを音楽で語る映画なのだ。ここまで“音楽”というものを描いた映画は他にないだろう。空気振動によって存在する音楽というものを見事に映像化したというか。

 だからこそ、思ってしまった。

 音楽ファン、音楽マニアを自称する者ほど、人の好きな音楽にケチをつけたがる傾向にある。“どこがいいんだ、あんな音楽”“そんな音楽が好きなやつはダメだ”みたいに。自分の聴いている音楽こそが崇高なものだ!みたいな。売れているものは悪と断罪するような感じ。
 しかし、これだけは絶対だ。世の中に存在する音楽にダメなものはない。絶対に誰かの感情を揺さぶり、誰かにとって大切なものになっているのだ。救われる者もいれば、幸せな気持ちになる者もいる。人とは違うとか自分はわかっているみたいな変な優越感を持って音楽に接している選民意識の強いリスナーよりも、音楽に素直に涙を流す人の方が音楽の芯にしっかりと触れているはずだ。音楽は人のステータスを定めるものではないのだ。もちろん好き嫌いは誰にでもある。理解できない物だっていくらでもある。しかし、それらを聴いている人を馬鹿にする理由はない。そんな人の感情を踏みにじるようなリスナーは、音楽ファンでもマニアでもない。その音楽に触れている自分が好きなだけだ。

 『バジーノイズ』はそんなことも考えさせてくれる。そう、音楽への向き合い方というものをストレートにぶつけてくる映画であり、音楽と感情というものの結びつきを再確認させてくれる映画であるのだ。そうなると自分が“なぜこの音楽が好きなんだろう”とか、“なぜこの曲に心を動かされるんだろう”とか色々と考えるはずだ。音楽だけではない。自分が触れてきたもの、感情を動かされたもの、時代、景色、匂いなどを思い出していく。すると、過去の思い出や感情がリンクして蘇り、自然と自分自身、自分の心の内側と向き合っている。

 音楽を音楽として、そして、音楽が持つ力を描いた、近年稀に見る傑作音楽映画であることは間違いない。そして、自らに向き合う機会を与えてくれる青春映画としても素晴らしいと思う。

 JO1という大人気ボーイズグループのメンバー川西拓実が、音楽しかない内向的な男の子を見事なまでに体現していて、普段の姿がなんか嘘みたいに見えた。それって清澄というキャラクターをあまりにもリアルに演じていたということなんだろう。ほんと、ナイスキャスティング!JO1に興味持ってしまったもの。

 そして、この映画にはSummer Eyeの夏目知幸(元シャムキャッツ)が出演している。これがもう見事にはまり役!とあるセリフがなんかズシンと重く響いてしまった。とにかく、夏目は夏目だった。


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