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【IBの課題から考える】言語は道具にすぎないのか?

これは、高校1年生の時に国語総合の課題として出された「言葉と言語」という単元のレポートで書いたものです。

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私は、言語には道具以外の側面があると思う。
まず、いくつかの国語辞典で調べてみると、道具とは「生活の便のために用いる器具」「手段、方法として利用されるもの」である。ここではそれらをまとめて「何かの目的をより簡単に果たせるように使用するもの」と定義する。

『ことばとは何か』の中で、著者の内田樹は「言語活動とは、もともとは切れ目の入っていない世界に人為的に切れ目を入れて、まとまりをつけることだ」と述べている。この文章から、言語とは「あるもの」に名前をつけることで、その言語を話す人の意識の中に「あるもの」を存在させる、つまり「概念化することを目的とした道具」であるといえる。

多和田葉子(高校時代よりドイツ語を学習した経験をもつ)の著書『エクソフォニー』本文中には、多言語社会は国際競争において不合理なので、言語を統一するべきだと言う人の意見が紹介されている。国際競争において多言語が不合理だと言われる理由は、同じ言語ができないと作業者同士での意思疎通が難しいことや、本文にもあるようにビジネスやコンピューターの言語になっている英語が理解できないと、まず自分たちが理解できる言語にするという段階を挟まなければいけないため、その分野への理解にも時間がかかってしまうからだと考えられる。
このことから、私たちは言語を通して、円滑な作業やビジネスを行うことや、コンピューターなどの新しい技術を得ることに期待していることがわかる。よって、言語は「技術獲得を目的とした道具」であるといえる。

一方で、言語には道具以外としての側面もみられる。
『エクソフォニー』本文中に「文化の多様性を背負っているのは言語なのだ」とあるが、これは同じニュースを伝えていても言語が違うことで、文化によって概念化されていないことばがあることや、ことばの「語に含まれている意味の厚みや奥行き」=「価値」が違い、視聴者に与える印象が変わるということを指していると考えられる。
つまり、情報の伝達という目的を果たすための道具として使われた言語が、必然的に文化の多様性を可視化するという道具以外の役割も担っていることになる。

また、筆者は自身の経験などから「頭の中にある二つ以上の言語を放っておくと、どちらも衰えていってしまうが、どちらも勉強すれば相互刺激により、単言語時代とは比較にならない精密さと表現力を得ることができる。」と述べている。これは複数の言語を学ぶことで「フランスでは羊全般をmoutonと呼ぶが、アメリカでは一般的な羊をsheep、食用のものをmuttonと呼び分ける」という例のように、「価値」が言語によって違うということをより多くの視点からとらえることができるからである。
文章中の「精密さ」と「表現力」とは複数の言語を学ぶことで得ることのできる副産物であり、このように複数の言語を学ぶこと自体に価値を見出すとき、私たちは言語から概念化や技術獲得といった道具としての役割以上のものを得ているといえる。

以上の理由から、私は言語には道具以外の側面があると考える。


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