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2021.8.13 インドネシアを救った“黄色い救世主”

日本軍が成し遂げた“350年の支配からの解放”

来たる8月15日は「終戦の日」。

日本の若者たちは国のため、そして家族のため、愛するものを守るために戦場に向かいました。

彼らはどのような想いで戦ったのか?

そして、どんな偉大な功績を残したのか?

終戦から76年間、語られてこなかった秘話がそこにはありました。

今回も偉大な先人たち、そして先人たちが成し遂げた偉業の数々を紐解き、世界に誇れる日本の歴史を書いていこうと思います。

日本は本当にアジアを侵略した「侵略国家」だったのか?

戦後、私たち日本人は
「日本はアジアを侵略した」
このように歴史の教科書で学んできました。

そして、終戦の日になると私たちは反省します。

戦前の日本は、アジアの人々に悪いことをしたのだと…

しかし、ある側面から見ると、日本人は決して侵略者などではなく、むしろ多くの国から尊敬と感謝を寄せられているのです。

一体なぜ戦前日本に対する評価が、ここまでくっきりと別れているのでしょうか。

実は、私たちが学校で習った「大東亜戦争」の裏側には、現代の日本人が知らない“封印された歴史”がありました…

人の価値は「肌の色」によって決められていた

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今日、肌の色によって差別されることはほとんどありませんが、つい100年前まではそれが当たり前でした。

当時の世界は、欧米の国々が支配していました。

彼らは主に白色人種で、世界中に植民地を持っていました。

そして、有色人種を差別して、奴隷のように扱っていたのです。

結果、1900年時点でアジアの独立国は、日本とタイ王国のみ。

地球上にある陸地のほぼ全ては白人が支配しているといえる状態でした。

まさに、人の価値が皮膚の色によって決められていた時代。

もはや有色人種は人間以下の存在として見られ、高いノルマを課し、それを達成できないものは家族の前で指や手足を切り落とす…

そのような残虐な行為が当たり前のように行われていました。

350年間続いた植民地時代
白人によって搾取されたカネと命

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これからお話しするインドネシアもその1つです。

今では世界最大の親日国として有名なインドネシア。

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しかし、大東亜戦争前のインドネシアは、豊かな農地と資源を抱えたオランダ最重要の植民地として、350年もの間、支配されてきました。

それだけに搾取も生易しいものではありません。

人口わずか0.5%のオランダ人が、インドネシア全財産の3分の2を独占するという有り様で、インドネシア本来の住民たちには食糧も行き渡らない状態になってしまったため、多くの村で餓死者が続出し、平均寿命は35歳にまで低下しました。

ある村の人口は33万人から12万人に、また違う村では8万人から9千人にまで人口が減少…

このままでは、インドネシア人は全滅してしまう…

しかし、圧倒的な力を持つオランダ人の前では、どうしようもありませんでした。

暗闇の中の唯一の希望…
人々が信じ続けた『ジョヨボヨ王の予言』

そんな絶望的な状況の中でも、インドネシアの人々の間で深く信じられている伝説がありました。

それは、『ジョヨボヨ王の予言』。

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これは12世紀前半、クディリ王国のジョヨボヨ王が残した次のような予言で、
「我が王国は、どこからか現れる白い人々に何百年も支配されるだろう。しかし、やがて北の方から白い衣を身に着けた黄色い人々が白い人々を追い出してくれる。黄色い人々は我が王国を支配するが、それは短い期間で、トウモロコシの花の咲く前に去っていく…」

つまり、インドネシアを苦しめる“白い人々”を北からやってきた“黄色い人々”が追い出してくれると言い伝えられていたのです。

いつの日か、"黄色い人々"がインドネシアを救ってくれる…

人々は藁にもすがる想いでその予言を信じ続けました。

大東亜戦争の勃発
日本人こそが「アジアの光」だった

一方その頃、世界史を揺るがす大事件が起きていました。

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1941年12月8日。大東亜戦争が勃発したのです。

戦時中、アメリカによる石油の全面禁輸によって窮地に立たされていた日本。

食糧も、資源も、お金も底を尽きそうで、このままでは敗戦必至…

そこで石油を確保するために狙いを定めたのが、アジアのインドネシアにある油田地帯でした。

日本軍はすぐさまインドネシアへ侵攻を開始。

当時の日本軍といえば、日露戦争で世界最強のバルチック艦隊を打ち破り、アジアの中でも唯一、欧米と肩を並べられる存在として数えられていました。

日本軍侵攻の噂を聞きつけた当時のインドネシア人は、もしかしたら日本人こそが予言の"黄色い人"なのかもしれない…

そんな淡い希望を抱き始めました。

空から現れた無数の人影
白人を9日間で打ち破った『黄色い救世主』

そしてある日、インドネシアの人々が空を見上げると、空から無数の人影が降りて来ました。

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それこそが白い落下傘を身にまとった黄色人種である、無数の日本軍兵士たち。

日本軍部隊を見た住民は、「まさに伝説の白い布をまとった黄色い救世主だ」 と狂喜しました。

そしてインドネシアに降り立った日本軍は、オランダ軍をわずか9日で撃破。

インドネシアを350年も続いたオランダの支配から解放したのです。

「絶対に勝てない相手」だった白人を見る見るうちに駆逐した日本軍は、インドネシア中で熱狂的に歓迎されました。

しかし、事はそう上手く運ぶわけではありません…

実は中には、日本軍が来たことを快く思わないインドネシア人がいたのも事実でした。

「予言なんて信じられる訳が無い」

「支配者が変わっただけで、俺たちは一生奴隷のような生活を送るだけだ」

と、不安げな声もありました…

3年間で10万人の行政官を育成
日本軍が育てた『インドネシア独立の芽』

日本の植民地政策は、欧米のものとはまるでかけ離れたものでした。

その中でも特徴と言えるのが、住民に対して熱心に教育を行なった点です。

本来、統治者として植民地を支配するのならば、住民に政治に関心を持つほどの知識は与えない方が統治しやすい、それが欧米の基本的な考え方でした。

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しかし、日本はインドネシアにおいて学校を作り、わずか3年半もの間で10万人もの行政官を育成し、それまでオランダ語を強要されてきた住民たちにインドネシアの言葉を使わせ、自国の歴史を学ぶよう命じました。

つまり、インドネシア人に民族の誇りと自信を持たせる事が、独立への第一歩であると教育したのです。

さらに、オランダ軍が禁止していた軍事訓練を施し、インドネシアを防衛するための軍隊まで結成。

これは現地住民に武力を与える行為ですが、日本はインドネシアを独立させるために必要な協力を惜しみませんでした。

大東亜戦争に敗れた日本…
しかし、アジアで勝ち取った『偉大な勝利』

そして、1945年8月15日。

大東亜戦争に敗れた日本軍は、インドネシアから撤退する事となります。

その隙を見て、オランダ軍がインドネシアを取り戻そうと再び進軍…

「喜びも束の間、インドネシアはまたもや、白人たちの植民地になってしまうのか…」

しかし、日本軍が去ったインドネシアは、かつてのただ従うだけの貧弱な国家とは全く違いました。

日本軍に育て上げられたインドネシアの軍隊が、オランダ軍に立ち向かっていったのです。

さらに、先頭に立っていたのは敗戦を迎えたはずの日本兵たち。

その数2千人。

なんと彼らはインドネシア人達に、
「我々は日本には帰らない。我々にはこのインドネシアの独立を果たす義務と責任がある。」
と言い、残った弾薬をかき集めて自分達が軍事訓練をしたインドネシア人達に渡し、共に戦ったのです。

それを見たインドネシア人の群衆も、独立を意味する
「ムルデカ」
を合言葉に勇気を振り絞り、共に再上陸したオランダ軍に立ち向かいました。

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そして遂にその勇気に恐れをなしたオランダ軍は、インドネシアから撤退を余儀なくされたのです。

350年間の支配からインドネシアは独立を勝ち取りました。

インドネシアにやって来てから敗戦するまでの3年半のわずかの間に、日本軍は住民たちに教育、軍事、そして独立への強い精神を残し、去っていったのです。

その期間はまさに予言の通り、トウモロコシが花が咲かせるまでの期間と同じでした。

アジアに広がった「独立の輪」
人種差別の歴史を終わらせたのは日本だった

日本は確かに大東亜戦争で敗けました。

しかし、戦争に敗れてもなお
「アジアを解放する」
という理念だけは生き残り、インドネシアの独立に貢献していたのです。

そして実は、今回のように日本が独立に関与したのは、インドネシアだけに限った事ではありません。

インド、フィリピン、香港、シンガポール、ベトナム、ラオス、カンボジア、ビルマ、ニューギニア等々、日本はアジアの多くの国の独立に関与し、数百年もの間、肌の色が違うがために辱められ、惨めな境遇を強いられてきた民たちを救ってきました。

もちろん、それと同時に日本も多くの過ちを犯しました。

反省すべきところはしっかり反省しなければならないのは確かです。

しかし、大東亜戦争を大きな視点で見ると、アジア大陸を主戦場として日本軍が懸命に戦ったことによって、アジアを欧米列強の植民地支配から解放。

そしてその高波がアフリカ大陸をも洗って、西洋列強によって虐げられてきた有色人種の国々が、次々と独立していったことは紛れもない事実です。

もし日本軍の活躍がなければ、世界は今でも白人によって支配され、これだけ多くの独立国は誕生していなかったかもしれません。

それまで何世紀と当たり前だった『人種差別の歴史』に終止符を打ったのが日本軍だったのです。

そう考えれば、日本は人類史を書き換えるほどの偉業を成し遂げたと言えるのではないでしょうか?

日本は確かに侵略国家である
しかし、それは『白人視点の歴史』

しかし、多くの教科書ではこのような歴史は記されていません。

それどころか、
「大東亜戦争はアジアの侵略戦争だった」
と、教えられます。

確かに"ある側面"から見れば、日本のしたことは侵略で間違い無いでしょう。

それは欧米から見た視点。

300年間ずっとアジアの国を蹂躙して甘い蜜を吸っていたのに、日本のイエローモンキーたちが侵略を仕掛けてきて、それまで支配していた憎たらしいアジアの国々が、次々と自分たちに刃向かって独立してしまいました。

なんて日本は憎い国なのでしょうか…

このように、植民地という"カネのなる木が奪われた側"からすれば、日本のしたことは「侵略」以外の何ものでもないのです。

日本はアジアを産んだ母
アジアから寄せられる「感謝と尊敬」

しかし、アジアの国々にとって日本は、植民地支配から自国を救ってくれた「救世主」であり、実際に多くのアジアの国からこのような声が寄せられています。

■インドネシア
◎モハメッド・ナチール元首相
「アジアの希望は植民地体制の粉砕でした。大東亜戦争は、私たちアジア人の戦争を日本が代表して敢行したものです。」

◎アラムシャ元第三副首相
「我々インドネシア人はオランダの鉄鎖を断ち切って独立すべく、350年間に亘り、幾度か屍山血河の闘争を試みたが、オランダの投智なスパイ網と、強靭な武力と、苛酷な法律によって、圧倒され壊滅されてしまった。それを日本軍が到来するや、たちまちにしてオランダの鉄鎖を断ち切ってくれた。インドネシア人が歓喜雀躍し、感謝感激したのは当然である。」

■タイ
◎ククリット・プラモード元首相
「日本のおかげで、アジアの諸国はすべて独立した。日本というお母さんは、難産して母体を損なったが、生まれた子供はすくすくと育っている。今日、東南アジア諸国民が、アメリカやイギリスと対等に話ができるのは、一体だれのおかげであるのか。それは『身を殺して仁をなした』日本というお母さんがあったためである。」

■インド
◎ラグ・クリシュナン元大統領
「インドでは当時、イギリスの不沈戦艦を沈めるなどということは想像もできなかった。それを我々と同じ東洋人である日本が見事に撃沈した。驚きもしたが、この快挙によって東洋人でもやれるという気持ちが起きた。」 

■マレーシア
◎ガザリー・シャフィー元外務大臣
「日本はどんな悪いことをしたと言うのか。大東亜戦争で、マレー半島を南下した時の日本軍は凄かった。わずか3カ月でシンガポールを陥落させ、我々にはとてもかなわないと思っていたイギリスを屈服させたのだ。私はまだ若かったが、あの時は神の軍隊がやってきたと思っていた。日本は敗れたが、英軍は再び取り返すことができず、マレーシアは独立したのだ。」

■ミャンマー
◎バー・モウ元首相
「歴史的に見るならば、日本ほどアジアを白人支配から離脱させることに貢献した国はない。しかしまた、その解放を助けたり、あるいは多くの事柄に対して範を示してやったりした諸国民そのものから、日本ほど誤解を受けている国はない。」 

他にも、大東亜戦争を日本が戦ったことに対して、多くの感謝の声が残されています。

アジアを侵略した「侵略国家」に送られる言葉とはとても思えません。

実際にアジアの人々の証言や事実を紐解くと、インドネシアをはじめ、アジアのさまざまな国で日本はとても立派な統治をしていたこと。

そして、現地の人々からはとても感謝されていたということが分かってきます。

命を賭けた日本人を批判する戦後日本
後世に受け継がれる「自虐史観」

しかし、今の日本では毎年終戦の日になると、戦没者の「英霊」に対して祈りを捧げるどころか、周りの国に配慮するという言い訳で首相が靖国神社への参拝へも行かず、テレビ番組やネットニュースでも、
「日本はいかに悪い国だったのか」
「いかに愚策を投じていたのか」
を終戦であるこの8月になるたびに繰り返し訴えています。

"大東亜戦争"の偉大な功績を振り返ることは愚か、もはや戦争を振り返ることすらタブーとなっている状態…。

このままでは私たちの子や孫も
「日本は悪い国だった」
という認識を持ち続けることになるかもしれない…。

〔編集後記〕

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映画『永遠の0』のラストシーン。

零戦を操るパイロットの宮部久蔵は特攻隊として出撃します。

勇猛果敢に敵空母に突進し、ぶつかる直前に90度の急上昇。

そして、敵空母の真上から真っ逆さまに突っ込んでいきます。

まさに映画のラストシーンを飾るに相応しい壮絶なシーン。

実は、これは実在した零戦搭乗員がモデルになっていると言われています。

その男の名前は、富安俊助(とみやす しゅんすけ)海軍中尉。
富安中尉が出撃したのは、大東亜戦争末期の1945年5月14日。

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爆弾を搭載した飛行機もろとも敵艦に突っ込む『特攻攻撃』は、米軍に甚大な被害をもたらしました。

しかしそれは、特攻攻撃が始まった当初の話。

米軍はレーダーを駆使し、空母エンタープライズの周りに護衛機を多数配備するなど、特攻攻撃への対策を進めました。

その結果、次第に特攻攻撃は通用しなくなり、体当たりどころか近づくことすら困難に…。

たとえ空母付近にたどり着いたとしても、そこに護衛機が待ち構えており迎撃弾の雨が降り注ぐのです。

そんな過酷な状況の中、富安中尉が率いる零戦部隊が出撃。

案の定、米軍にすぐにその動きを察知され、米軍の迎撃隊によって14機の零戦が撃墜されました。

敵空母への突入の前に、残るのは富安中尉が操る1機のみ…。

たった一人生き残った富安中尉は、米迎撃隊からの攻撃を防ぐため、一旦雲の中に隠れ機体を隠します。

時折、雲の中から顔を出し敵空母の位置を確認。

米軍は事前にレーダーで捉えてはいたものの、雲の中に隠れられてしまっては効果的な攻撃を加えることができません。

そうした状況に痺れを切らした米軍は、空母の向きを変えました。

しかし空母の船尾は、富安中尉の機体と向き合う形となったのです。

富安中尉はこの機会を逃しませんでした。
満を辞しての急降下突撃。

富安中尉は機体を横滑りさせながら集中砲火をかい潜り、米空母の懐に接近していきます。

段々と眼前に迫り来る敵空母。
あと少しでその横っ腹に突っ込む。

そう思った次の瞬間、富安中尉は機体を一気に引き起こし、エンタープライズの真上に急上昇します。

富安中尉の狙いは、空母の最大の弱点である「エレベーター前部」にありました。

機体を敵空母の真上に持ってきた富安中尉は、上空で機体を左に180度回転させ、そしてそのまま急降下し、飛行甲板前部に突入しました。

敵空母の負った被害は甚大。

沈没こそ免れたものの、戦線離脱を強いられます。

この富安中尉の特攻は、米軍からも敬意を持って受け止められます。

優れた技術と計画性を持ったその特攻は、米軍では無謀な自爆攻撃という意味合いを持つ
「KAMIKAZE(神風)」
ではなく、
「DIVINE WIND(神聖な風)」
と呼ばれました。

富安中尉の遺体はアメリカ兵の遺体と同じように丁重に水葬されました。

たった一人で空母を機能停止にまで追い込み、アメリカでも敬意を持って語られている富安中尉。

しかし、一方の日本では、このように特攻隊の姿は教科書にほとんど出てきません…。

しかし、これは何も、「富安中尉」や「特攻隊」に限った話ではありません。

同じように、敵国では評価されている日本の誇らしい真実はたくさん存在します。

今回は本編から外れて、英雄たちが偉業を成し遂げた中から、富安俊介をあとがきとして紹介させて頂きました。

今回も最後までお読み頂きまして、有り難うございました。

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