見出し画像

2019.07.14 アヘン中毒にさせられた中国とされなかった日本:運命を分けた大英帝国の侵略術

幕末の志士が涙を呑んだ事件がありました。
1858年、開国した日本はアメリカ・イギリスと条約を結びました。
不平等条約の締結です。

その内容は、

1.領事裁判権の承認
日本国内で外国人が罪を犯した時に、日本の法律ではなく、その外国人の出身国の領事が自国の法律で裁く

というものや、

2.関税自主権の放棄
他国の商品を日本が輸入して売る際に、その商品にかける関税額を日本では決められない

というものなど、日本には不利なものばかりで、当時の志士たちは涙を呑むほかありませんでした…。

ここまでは教科書にも載ってあり、皆さんもご存知かもしれません。

しかし…、この不平等条約には教科書では教わらないもう一つの重要な事実がありました。

それは、条約の第4条に明記されている歴史的にも重要なことなのに、大河ドラマや歴史の教科書では、決して表にはでてくることはない「日本へのアヘン輸入」が明記されていたということ。

「新しい国を作るんだ!」

「腰抜けの徳川幕府を潰せ!」

そう息巻き、薩長土佐の15、16歳ほどの若い志士たちが中心となり起こした、日本が世界に誇る無血革命…

明治維新

これより8年前のこと。
お隣の清国がアヘンイギリスに潰されていく中、危機感を覚えた日本が革命を起こし、近代化を進め欧米列強の支配を逃れた…

これが通説となっている明治維新ですが、皆さんはこう疑問に思ったことはないでしょうか?

「隣の国がアヘンでボロボロにされているのに、日本にだけは本当にアヘンが入らなかったのか?」

開国のとき、日本はアヘン中毒でボロボロになり負けていく清を間近で見ていました。

実は…

あの当時、確かに日本にもアヘンが入っていました。

日英で交わされた不平等条約には、「日本へのアヘン輸入許可」がしっかり明記されていたのです。

「アヘンで国をボロボロにして立ち上がらせなくしてしまえばいい」そう考えたイギリスの戦略にはまってしまったのです…。

イギリスの圧力でアヘンを吸わされ、日本も国をボロボロにされてしまうと、当時の江戸幕府は怯えていました…。

しかし、皆さんもご存知の通り、日本はアヘン中毒になることはなく、その後、明治日本はたった数十年で列強の仲間入りを果たすほどの急成長を遂げることになります。

なぜ日本はアヘン中毒にならなかったのでしょうか?

その理由は、隣国の失敗から学んでいたからでも、日本人の規律がしっかりしていたからでもありません。

理由は、私たち日本人ではなく、アヘン輸入を決めたイギリス側に存在していました。

なぜイギリスは輸入を決めておきながら、清とは違って日本をアヘン漬けにしなかったのだろうか?

日本を生かして利用したい“何か”があったのだろうか?

明治維新に残る3つの謎を見ていくと、イギリスの日本侵略作戦の全貌が見えてくることになります…

・明治維新の謎①
明治維新の数年前から、中国のアヘン戦争で暗躍した“主役級の人物たち”が、続々と日本にやってきて活動をしています。

その中の代表格がイギリスのアヘン商社「ジャーディン・マセソン商会」
彼らこそが、中国に大量のアヘンを売りつけたことで中国をボロボロにした当人です。

そして、注目すべきは「ジャーディン・マセソン商会」の長崎支店長として日本に送られていたトーマス・グラバーという男。

皆さんも名前ぐらいは聞いたことがあるかもしれません。


彼は当時、日本最大級の武器取引を手掛け、薩摩と密かに繋がりを持ち、薩摩・英国間で武器取引を斡旋してきました。

そして、この密貿易の仲介者として、グラバーの代わりに表舞台で活躍したのが、かの坂本龍馬です。

薩摩、長州、英国間の三角貿易を龍馬が表で動くことにより薩長同盟を成立させていました。

これにより薩長同盟は無事に成立し、倒幕の流れに移っていきます。
もし、このイギリス側の支援がなければ、志士たちの倒幕は叶わなかったかもしれません…。

一体、アヘン戦争で暗躍した“主役級の人物たち”は日本で何を企んでいたのでしょうか?

・明治維新の謎②
上の写真はのちに「長州ファイブ」と呼ばれるようになった男たちの留学先の写真です。

男たちの名前は伊藤博文、井上馨、遠藤謹助、井上勝、山尾庸三。
全員有名ですが、中でも伊藤は初代総理大臣を務め、知らない方はほとんどいないでしょう。
この5人は、明治政府でとてつもない権力を持ち、要職に就いた男たちです。

彼らは当時、最も栄えていた国、イギリスの大英帝国から近代化を学ぶ必要性を悟り、死罪を覚悟してまで密留学で渡英を決意し鉄道、工学、造船、金融などの最新技術を学び尽くしました。

そして彼らは、文字通り「命がけ」で掴み取った功績を日本に持って帰り、日本近代化へ大きな影響を与えることとなったのです。

でも、ここで一つ疑問があります。

そもそも、ほとんどが下級武士であった彼らがなぜ、イギリスに密留学することができたのでしょうか?

今では考えられませんが、当時の日本は現代と違い鎖国に近い状態で、密留学は違法でした。

さらに、留学をするには莫大な費用が掛かりました。

実際に、彼らの掛かった費用は現代のものに直すと、約11億円。

1人あたり2億円以上も掛かっていたことになり、かなり贅沢な留学であったことは明らかです。

なぜ、このような贅沢な留学ができたのでしょうか?

彼らが優秀で選び抜かれた人たちだったのでしょうか?

いえ、決してそういうわけではありませんでした。

実際、長州出身の5人は下級武士。

下級武士といえば武士の階級でも一番位の低い「足軽」と呼ばれた存在でした。

常識的に考えれば、服装も貧相で留学に行くお金などあるわけもなく、間違いなく不可能であったイギリス留学。

そんな状況にもかかわらず、なぜこの5人は留学することができたのか…。

実は、そこには彼らを支援していたバックがいたのです。

それこそが大英帝国の武器商人トーマス・グラバーです。

彼が密留学の手引きをしていたのでした。
当時、“死罪”にもなり得る違法な蜜留学ですが、武器商人であるグラバーはいかにして彼らを手配したのか…

しかし、それでも疑問なのは、なぜ一介の下級武士ごときにグラバーが支援をしたのか?

金持ちの道楽でしょうか?
ボランティアでしょうか?
彼がいい人だったのでしょうか?

いったい、彼にどんな見返りがあったのか…

また、さらに不可解なことは、長州ファイブの伊藤博文と井上馨は、もともとイギリスのことが嫌いでした。
事実、彼らは蜜留学の4ケ月前、攘夷を叫んで英国公使館を焼き討ちしています。
そんな英国を毛嫌いした放火犯たちが、わずか4ケ月後に英国本国に密航するという豹変ぶり…

これはいったいどういうことなのでしょうか?

グラバーは、彼らに何を吹き込んだのでしょうか?

ちなみに、この蜜留学に掛かった11億円もの渡航費の出所は今も不明です。

この5人の留学の裏側はいったい何だったのでしょうか?

・明治維新の謎③
HSBC(香港上海銀行)はイギリスの銀行で、もともと中国とのアヘン密輸で儲けた金を、本国へ送ることを目的として作られた銀行です。
当時、日本では大量のお金が動くほどのアヘン貿易は行われていなかったはずですが、なぜか横浜支店が開設されていました…
このHSBC銀行にはいったい何の役割があったのでしょうか。

ここで面白いことに、HSBCホームページには「明治政府に相談され、お金の作り方を教えた」との記載があります。
これはどういうことでしょうか?

実は、明治新政府になってから、新円を鋳造するため大阪に英国式建築の立派な「造幣局」が新しく作られています。

その造幣局では20円金貨が作られていました。

その重さは「20円金貨=31.3g」でイギリスの「1オンス=31.1g」とほぼ同じ重さ。

その金貨は日本国内で出回ることなく、英国やアメリカへの輸入支払いのためだけに使われていました…

それによって、12万トンにも及ぶ日本の大量の純金は、20円金貨へと形を変え、湯水のごとく国外へと流出していました…

造幣局100年史でも確認できますが、驚くべきことに20年以上にわたって、この造幣局の局長を入れ替わり立ち替わり務めていたのが「長州ファイブ」の男たちだったのです。
イギリスがお金の作り方を教え、そのカネを自由に操れる場所にイギリスが支援した5人の男たちが入れ替わり立ち替わり務めている…

これは偶然なのでしょうか?

ただ1つ確かなことは、薩長の若い藩士たちが成し遂げた「明治維新」をきっかけに、12万トンもの莫大な純金が、全て国外へと消えてしまったということ…

ちなみに、今でもロンドン大学には「長州ファイブ」の功績を称える顕彰碑が建っています…

これらの謎をまとめてみると、イギリスが支援した幕末の志士たちが作った明治新政府は、イギリスからお金の作り方を教わり、さらに蜜留学した5人の男たちが、その造幣局でカネを自由に操っていた、ということになります…。

アヘンを使い、自国の兵隊を消耗して敵国を滅ぼしカネを巻き上げなくても、狙った国の内部から政権転覆を謀り、利益を得るという手口を使えば、自国に犠牲を出さずともたくさんの利権を得ることができる…

これが全てイギリスの戦略通りだったとしたら…?
日本でアヘンが蔓延しなかったことにも繋がってくるのではないでしょうか…
ちなみに、一番最初に明治の新政府を認めた国はイギリスでした。


皆さんはどう思いましたか?

もし、明治政府がイギリスにとって都合の良い政府なら、そう考えると見方が断然変わってきますし、全てが腑に落ちます。

例えば、明治維新には他にもこんな謎が残っています…

・実は「ジャーディン・マセソン商会」の長崎支店長として日本に送られていたトーマス・グラバー…

なぜ、薩長土佐の大物たちはこぞって長崎を目指したのか?
近年、グラバー邸で発見された隠し部屋で、いったいどんなやりとりがなされたのか?

・江戸無血開城を成し遂げた男:勝海舟と坂本龍馬のグラバーとの黒い繋がり…
なぜ、江戸幕府の大物である勝海舟が斬首にならず、逆に明治維新の重鎮にのし上がることができたのか?

・英国公使として来日した第二次アヘン戦争の首謀者:ハリー・パークス…
大阪城で行われた徳川慶喜との会見で一体何を話したのか?

なぜ、その直後に慶喜は上野に逃げ帰り、突然お寺に謹慎してしまったのか…。
100万の幕府軍があっさり戦闘を放棄した本当の理由とは?

・造幣局、東京駅、日銀など、日本を代表する建物が、なぜ全てイギリス製なのか?

なぜ、いまだに日本の新幹線ではイギリス英語が使われているのか?

なぜ、江戸城の中、しかも石を投げたら半蔵門に当たるような特別な立地にイギリス大使館が作られているのか?
等々…

明治維新を日本国内だけの狭い視点からではなく、大英帝国=イギリスが目論んだ世界征服の一部という“広い視点”から見ることで、バラバラだった点と点が全て綺麗に繋がります。

日本国内での出来事だと教わってきた明治維新が、実はイギリス大英帝国が世界征服をするための「明治維新・大作戦」だったとしたら、巨大な帝国の手のひらの上で転がされていただけの単なるフィクションだったとしたら…

もし、皆さんが明治維新の美しい面だけに目を向けていたとしたら、本当のことは理解できないかもしれません…
そして、日本近代史の基軸である明治維新を間違って理解していたならば、常識だと思っていた歴史の全てが、いつの間にか間違いに間違いを重ねたものになっている…
そんなことにも気付かないかもしれません…。

日本の近代史の根底となる明治維新が本当はどのようにして起きたのか?

本当の歴史を知れば、皆さんの日本を見る目、日本人としての考え方は変わり始めるでしょう…

大河ドラマや時代小説で語られている美しい虚像ばかりを信じさせられるのではなく、日本ではほぼ語られない本当の歴史を知ることも、一つの知識になり得るのではないでしょうか。

そして、今日7月14日はペリー上陸記念日。1853年、アメリカ提督のペリーが横須賀市久里浜に上陸した日です。
この日を境にして幕末、明治維新が始まっていく、そのきっかけとなった日でもあります。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?