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2019.9.25 日本史上最も優れた"天才外交官"~たった1人で米国人を"親日"に変えた男の偉業~

1942年5月16日
享年89歳、1人の日本人が息を引き取りました…。

なんと、その翌日…、大東亜戦争の真っ只中にもかかわらず、米国ニューヨークタイムズ紙の死亡欄トップに、彼に宛てた長文の追悼記事が掲載され、
「日米間の友好を説いた平和の唱導者」
「セオドア・ルーズベルト大統領の友」
と、最大の賛辞が呈されました。

教科書にすら載っておらず、日本ではほとんど忘れ去られた存在のこの男の名は、日露戦争で「宣伝工作」の黒子に徹した金子堅太郎。

当時、ロシアとの国力差は面積60倍、国家歳入8倍、陸軍総兵力11倍、海軍総トン数1.7倍…。

これは、大東亜戦争開戦時の日米の差よりも遥かに大きく、日本は滅亡の危機にありました…。

日露戦争では「坂の上の雲」の影響からか、艦隊戦や軍隊の活躍ばかりがクローズアップされますが、何の肩書も持たない金子がたった1人で成し遂げたことは、実は十数万の軍隊に匹敵するほどの偉業でした。

日露戦争開戦…、伊藤博文から授かった“密命”。

1904年2月4日

枢密院議長を務める伊藤博文は、日露戦争の開戦を決めた御前会議を終え自邸に戻ると、ロシアとの戦力差をよく分かっていた伊藤は、すでにこの時、戦争をいかに上手く“終わりにするか”を考えていました…。

そして、すぐさま腹心の金子堅太郎に電話をかけ、自邸に呼びつけます。

ハーバード大学のロースクールを卒業。
時の米国大統領であるセオドア・ルーズベルトとも同窓生だった金子は、米国内に多くの友人がいましたが、その人脈に目を付けた伊藤は、米国世論を味方につける“対日工作”と、大統領による和平という密命を金子に託すつもりでいました。

緊張した面持ちの金子を前に、伊藤は重い口を開く…。

「ついにロシアとの開戦が決まった。この戦争は何年続くか分からぬが、もし勝敗が決しなければ、間に入って調停する国がなければはならぬ。頼むところは米国ただ一国だけである。君が大統領と懇意なのは私も知っている。直ちに米国に渡り、説得してくれないだろうか。加えて、米国民が日本に同情を寄せるよう、広報活動もしてもらいたい。」

伊藤の密命を聞き、金子は躊躇します。

なぜなら、長く米国に留学していた金子は、ロシアと米国の関係の深さを誰よりもよく知っていたからです…。
米国が独立後間もなく英国と戦争をした際、ロシアだけが米国を助けたことがきっかけで、両国は非常に親密な国交を保っていました。

さらに、米国の富豪たちもロシアの貴族と結婚するなど、あらゆるところで関係が深かった。

そこで、金子はすかさず、
「そのようなところに私が行っても見込みがあまりにも薄いです…。」
と、断りを入れました。

しかし、
「いざとなったら私も鉄砲を担いでロシア兵と戦う覚悟でいる。」
という伊藤の強い決意に押され、金子は大役を引き受けることを決めました。

この時、外交官でも大使でもなく、特別な肩書を持たない身だった金子に対し、桂総理は
「“特命全権大使”“枢密顧問官”など希望があれば、どんな官職でも授けよう。」
と提案してくれました。

しかし、金子はその申し出に対し、
「自分がもし官職を持って米国に行けば、金子の行動・演説は全て政府の差し金だと思われる。何かミスを犯した時には、政府にとってダメージになる。私1人で責任を負うので、官職はいらない。」
と言って、その提案を断ります。

さらに、
「米国の新聞や記者を買収するための費用を全て支給する。」
と提案してくれた総理に対し、
「私は一文の費用もいりません。」
と言い放ち、肩書も資金も一切持たないまま、小さな旅行カバンだけを携え、2月24日、金子は日本を発ちました…。

1904年3月10日

金子が米国に到着するちょうど1日前、とてつもない逆風が吹きます…。

なんと、ルーズベルト大統領が「局外中立の布告」を発表。
全米の新聞に掲載されたのです。

その内容はというと、
「日本とロシア、どちらもアメリカの修好国である。よって、どちらか一方を応援し、贔屓をするような言論行為は一切禁止とする。」
というものでした。

「小国日本が巨大なロシアに立ち向かう」
米国内でにわかに起こりつつあった同情の念は、これで断ち切られました。

翌日、サンフランシスコの土を踏んだ金子は、
「いくら同窓生とはいえ、あんな布告を出した張本人に援助を頼んでも無理に決まっている…」
と、この布告の知らせを聞いて絶望します。

とはいえ、もう後戻りはできない…。
残るほんのわずかな望みに賭け、金子はホワイトハウスへ向かいます。

しかし、そこで金子を待っていたのは驚くべき光景でした。

ホワイトハウスに着くや否や、なんと玄関の奥の官房から、先に待っていた3,40人の訪問者をかき分け、大統領自ら廊下を走ってきたのです。
そして、金子に向かって、
「なぜ君はもっと早く来なかったんだ。僕は待っていたのに。」
と、肩を抱き合って大喜びし、執務室へと招き入れてくれました。

そこで、金子が恐る恐る訪問の事情を話すと、中立の布告を出した直後にもかかわらず、
「金子の頼みなら」
と、二つ返事で快諾。

これはまさに、金子が20数年の歳月をかけて育んできた大統領との親交の賜物でした。

そして、日本文化に興味を示した大統領に対し、金子は名著『武士道』を贈りました。
すると、その内容に感激した大統領は、自ら『武士道』を30冊も取り寄せ、自分の子供、親戚有力な大臣や議員に配り、
「これをもって処世の原則とせよ」
と命じ、熟読させました。

それからというもの、なんと官邸の一部屋に畳を敷き柔道の稽古をするなど、一層日本贔屓になった大統領は、「日本の最良の友」として努力することを金子に約束してくれました。

伊藤の期待通り、大統領を味方につけ一層波に乗った金子は、その人脈をフル活用して全米各地を駆け回り、世論工作に獅子奮迅の活躍を見せます。

英語スピーチの達人で、抜群の社交性を誇った彼は、政治家・財界人・弁護士・大学関係者らのパーティーに引っ張りだことなり、各地で講演依頼が殺到。

米国に滞在した2年間で、大統領との直接の会見や晩餐会、私邸への招待は計25回以上。
高官、VIPとの会談、晩餐会、午餐会への出席は60回以上。
日露戦争、日本の立場についての演説・スピーチを全米各地で50回以上。
ニューヨークタイムズなど、有名新聞への寄稿5回。

またある時は、米国最大規模のカーネギーホールを3000人の超満員にするなど、大観衆を前に「日本軍の強さ」「武士道精神」を説明して感銘を与え、日本贔屓の米国人を日に日に増やしていきました。

そんな金子の活躍を見たロシア人から
「明日の演説では覚悟しておけ」
といった脅迫状・投書が何度も届いていたため、米国の警察は警備を打診するも、彼はこれを拒否し、
「もし私1人の死が米国人の同情に変わるなら、私は喜んで死にます。」
と、2年間一度も護衛をつけませんでした。

まさに『武士道」を体現したような金子の姿は、ますます米国人の心を掴みます。

ちなみに日露戦争では、「戦費調達」にも大きな問題を抱えていた日本だが、ユダヤの大財閥をも味方につけた金子の宣伝工作のおかげで全て解決。
彼が起こした波に乗って、日銀副総裁の高橋是清が大財閥を説得。

当時の日本の国家予算の5倍ものカネを集めることができました。これは、現代のカネにすると450兆円にも上る金額です。

さらに、戦況が進むにつれ、その都度ルーズベルト大統領は金子に対し、軍事の戦術面・外交面からアドバイスをくれましたが、その姿は、まるで“日本の参謀役“のようだと言われるほどでした。

1905年3月10日

しかし、「連戦連勝」の日露戦争も長くは続かず…、奉天までの勝利が限界でした。
日本は弾薬も尽き果て、兵士の戦費もなく、戦争継続はもはや困難に…。
一方のロシアは強大な兵力と武器を温存。これ以上長引けば日本は終わりという瀬戸際にありました…。

そんな時、日本を救うため、ここでも一肌脱いでくれたのはルーズベルト大統領でした。

国難を極めるとされたロシアとの講和を仲介し、ポーツマスでの会談をセッティング。

さらに、交渉が始まると、大統領はまるで“日本側の弁護士”のようだ…と言われるほど、交渉の秘密文書さえも金子に見せるなど、日本に逐一情報を渡し、その1つ1つにアドバイスをくれました。

明らかにロシアが有利な交渉であり、何度も決裂しかけたところをなんとか和平にこぎつけることができたのは、ルーズベルト大統領と大統領と、そして大統領と米国の有力者・世論を味方につけた金子がいたからでした。

こうして、日本はロシアの脅威を退け、日露戦争に勝利することができたのです。

それからしばらく経った後…、莫大な戦費を借り、ギリギリだった講和の仲介までしてもらい、大恩ある米国に対して、ある男が金子の努力を踏み躙り日本を破滅に追い込むという信じられない裏切り行為をします…。
この一件以降、ユダヤの財閥は日本を敵対視するようになります。

そして、あれほど日本贔屓だったルーズベルト大統領まで反日へと転換…。

日英同盟を破棄させる工作など、日本を国際社会から徹底的に排除する動きを見せていき、それが真珠湾攻撃への誘導、日米大戦、マッカーサーの占領へと繋がっていきました…。

さらに驚くべきことに、日本はこの時ユダヤの財閥から借りた莫大なカネをその後も国民の血税から延々と返し続け、1987年になって、ようやく返済したのでした。

日露戦争では、あれだけ大恩のある米国に対し、1人の男が日本を破滅に追い込む“大失態“を冒した一方で、卓越した英語スピーチと社交性を活かして、ホワイトハウス・大財閥・米国世論への広報・宣伝工作を大成功させた金子堅太郎。

ユダヤの大財閥を巻き込んで、たった1人で日本の国家予算の5倍もの金を集めた高橋是清。

203高地の戦いを指揮し、『武士道』精神で世界中から尊敬された乃木希典など、日本の教科書・歴史から消し去られた“誇り高き日本人”がたくさんいます。

そのような良い面も悪い面も含めて、日本という国を形作ってきた歴史の歩みを正しく知り、自国に誇りを持って生きていって欲しい。
日本人ひとりひとりが、そこから教訓を得ることで、正しい判断軸を持って希望ある新たな歴史を創っていってほしいと願いつつ、今回はこのあたりにしておこうと思います。

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