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2021.10.21 アメリカ兵の見た特攻隊の姿

77年前の今日、日本で初めて神風特攻隊が空へと飛び立ちました。

とてつもない精神力を見せて戦い、祖国を守ろうとした数多くの日本人。

特攻とは何だったのか…。
日米大戦とは何だったのか…。

今回は、神風特攻隊について書いていこうと思います。

特攻については、私も個人的に話を聞いたことやアメリカで多くの映像を観ました。

アメリカの大学院では、第二次世界大戦というゼミがあり、そこでは日本攻略を専門にした方や日米大戦の戦術専門家の方など、いろいろなアメリカの先生方がいます。

そのゼミの中で読まされた本は、アメリカの水兵、特に航空母艦に乗っていた水兵たちが回顧録で書いた『カミカゼ』についての史実でした。

それぞれ違った州から集められ、アメリカの航空母艦に乗った水兵たちが書いた回顧録で、カミカゼに関するページで出てくるセリフはほぼ同じものでした。

日米開戦当時、アメリカではレーダー(電波探知機)が発達していました。
ちなみに、レーダーが防空を使用目的として世界で初めて開発に成功したのは、1939年の日本陸軍によるものでした。
しかし、日本の大本営は自国で開発に成功したレーダーを採用せず、逆にイギリスやアメリカに採用され、皮肉にもこれに改造を重ねられて航空母艦に搭載されました。

その航空母艦のレーダーにカミカゼが点々と現れると、水兵ら乗組員は一瞬にしてパニック状態に陥ったと言います。
レーダーに写る点が大きくなると、恐怖のあまり機銃、機関砲で耳が聞こえなくなるほど、艦が揺れるほど、あるだけの弾を撃ちまくる…。

カミカゼが十分肉眼でも確認できると、機体は真っ直ぐ飛んでくるので、近くまで飛んで来たら必ず撃ち落とした。
しかし、時々いくら撃っても落ちない機体がある。
神か悪魔か…。
アメリカ水兵たちは特攻されたら全滅するのが分かっているので、必死に応戦します。

そうすると、うねりながら旋回して弾を避けるカミカゼ…。
時間にすれば僅か5,6分。
ところが、水兵たちにとっては恐ろしさのあまり、とてつもなく長い時間に感じられた。

しかし、片道切符のカミカゼもとうとう燃料が切れ、艦目がけて突っ込んでくる。そこを艦に当てさすまいとカミカゼを機銃で撃ち落とす。
最後に残った悪魔のようなカミカゼが海へ突っ込んで行ったときに、水兵たちの
「うおおおおおおおっ!」
と大きな歓声が上がった。
しかし、そのあとは必ずシーンとした静けさが漂う…。

その理由を回顧録の中では、戦闘機に乗った男に対し、
「あれだけ勇敢に戦って、あれだけ天才的な才能を見せて、なぜオマエは基地へ帰らなかったんだ?なぜ海へ落ちたんだ?」
と言葉を残しています。

戦後、アメリカで公開された神風特攻隊が海へ落ちていく映像には、
「なんて奇妙で、残酷なんだ」
「狂気の沙汰とも言えるこの空軍は、敵を目がけて辛抱強く突っ込んでくる歩兵のようだ」
「海には塹壕など全くないのに…」
といった言葉が流れます。

そのほか映像には、
「1945年3月13日から3月21日の間に、556機の日本軍機が撃墜された」

「男たち(航空母艦乗組員)は寝る間を惜しみ戦った。あるものは機関銃で、またある者は斧を手にして戦った。トーチをかざしながら戦った者もいれば、消火器で戦う者もいた。(艦を)修理しながら、そして同時に戦う」
と言葉が添えられています。

一人の勇敢な日本人と勇敢なアメリカ水兵たち、俗にいう戦闘機と航空母艦との一騎打ち。
両方とも見事に戦ったので、アメリカ側は、
「もうこれくらいでいいだろう、もういいから帰ってくれ」
と思っていましたが、もちろんカミカゼは帰りません。いや、帰る先がありません。そこを仕方なく水兵たちは撃ち落とした。

気違いか、狂気か、それとも神憑りか…。
その当時の特攻隊員ら若者たち。
特攻を志願したのか、それともプレッシャーがあったのか。
いろいろと諸説あり、本当のところは分かりません。

ただ、カミカゼが出てきたのは間違いありません。
総数は約4000機。
特攻隊員の中には、不時着して生きながらえた人もいますが、その人たちは本土に帰っても特別な収容施設に入れられ、戦争が終わるまで出してもらえませんでした。
特攻で死んだ者は、すなわち、『空の神兵』として扱われており、軍部では生きててもらっては困るという存在でした。そのため、姿を隠され続けました。

神風特攻隊が、狂った作戦だったのかどうかは、この身で体験していない私にはわかりません。
無駄死にだったのか、それもわかりません。

ただ、日本はもう戦争に負けていました。
なぜ止めなかったのか、これもわかりません。

大本営の意思か、それとも200万人、300万人、400万人を戦死させたために、止めるに止められなかったのか…。
…恐らく、これが答えではないかと個人的には思っています。

しかし、こういった説明を一度でも、戦後の日本政府はしたでしょうか。
今は既にお墓の中ですが、日米大戦を目の当たりにし、家で男たちが帰ってくるのをずっと待っていた私たちの曾祖母や祖母に、今を生きる私たちは、墓前でどう説明すれば良いのでしょうか。

日本国民に、あの戦争を説明してくれる日本のリーダーが今までにいたでしょうか。

カミカゼは何だったのですか?
学徒出陣は何のためにやったのですか?

反省も無し、回顧録も無し、説明責任も無し。
ただ忘れよう、ただ忘れようと、アメリカが言った通りの歴史を学んで、日本は永久悪者にされて、75年以上も経って、未だ戦争の節目だとか言って…。
戦後75年?
昨年も、いい加減にしてほしいものだとずっと感じていました。
次の節目となる戦後80年で、日本のリーダーは何の話をするつもりなんでしょうか?
隣国に謝る話ですか?
それとも日本国民に、
あの戦争の意義は何だったか?
あの戦争は何だったのか?
日本国民がどれだけ苦しんだのか?
その説明が節目節目で未だにありません…。

あるのは、ただ一生懸命に忘れ、一生懸命に謝り、時が経てば許してくれるんじゃないかと思っている。
この浅はかな日本の戦後歴史…。
もううんざりです…。

きついことを書いていますけれども、私はこれが日本の舵を取る者たちの本心であり、本筋だと思っています。

ここを解決しない日本。
これから100年経っても、まだ同じことを言っていると思います。
「戦後100年の節目、云々…」と。

『神風特攻隊』
名前は残りました。
しかし、現実はどうだったのでしょうか?
勇猛果敢な日本人ばかりでしたか?
学徒出陣のことを当時の国民は皆知っていたのでしょうか?

「お国のため」
と口では言っていますが、内心悲しかったでしょう…。
「お父様、お母様、さようなら」
「恋人よ、さようなら」
「お世話になりました。今から行って参ります」案の定、敵艦に突っ込んで行けば、敵は撃ち落とそうと身構えている。
偶々、エンジン不調で不時着して日本海軍に助けられた男たちは、『国の恥』と思われていて隠れた施設に放り込まれ、「外へ出るな!」と憲兵に見張られ時を過ごす…。

そんな戦争をした日本です…。
一部の軍国主義者たちがやった、そんな簡単な話でしょうか?
国民が総力を挙げて戦ったのです。
良い悪いの次元は超えています。
生きるか死ぬかの総力です。
この日本が、これだけの大戦争をしたのに、負けたらピタッと話を止めて、振り返りもしない。

振り返りもしないために、外地で死んでいった日本将兵の遺骨は、まだたくさん野晒しになっています…。

これを国の恥としない国なんぞ、これから大きくなれるはずもありませんし、偉大にさえなれません。

自分を見つめ直して、他所の人に向かって反省するものではありません。
日本のリーダーは、日本の歴史を知ってリーダーになっているのか?
それともアメリカの御用聞きなのか?

神風特攻隊で死んでいった男たち。
この人たちについて、私たちは彼らの中身を知ることなく、名前だけ『神風特攻隊』と、あたかも墓石の戒名のような感じで口にしているのが現実です。
男たちの出身地も、出身大学名も、もちろん名前も知らず、神風特攻隊は、日本が敗戦した時の墓石の戒名となって残っています。

これは、戦後の日本が抱えている、未だ解決していない大きな大きな問題の一つでもあるのです…。


先述したように、77年前の今日、日本で初めて神風特攻隊が空へと飛び立ちました。
さらに同日には、日本の将来を支えていく希望であった学生たちが、学徒出陣により戦争に駆り出されていきました。
彼らはその時、何を想ったのでしょうか…?

とてつもない精神力を見せて戦い、祖国を守ろうとした数多くの日本人。
でも、その代償はあまりに大きく、何十年と掛けて育ててきた大切な人材その貴重な命と引き換えに、日本は優秀なリーダーを失いました。
このことは、今の日本にどのように活かされているのでしょうか?

アメリカの戦後占領で歴史教育は歪められました。
アメリカ兵が恐怖を感じた『日本の強い精神力』が、二度と蘇らないように教育は作り変えられました…。

それだけではありません。
戦争を経験した祖父や祖母から話を聞ける機会は、確実に無くなりつつあります。
戦争を経験した方であっても、凄まじいい記憶を語ることははばられることもあります。
こうして、日本では日米大戦で、「日本を守ろうと必死で戦った人たち」がいたことを知る機会が失われつつあります。

一方、アメリカでは、このことをしっかりと教えているにもかかわらず、小説、映画、マンガ、メディアを通して、神風特攻隊が美化されるような描かれ方があります。
同時に、それを危惧する声もあります。
でも、そもそも私たちは真実の歴史を知ることすらないまま、生まれ育ってきました。
良いか悪いかを判断する以前に、真実の歴史を知ることなしには、考えることすらできないでしょう…。

先人たちが凄まじい精神力で守ろうとした日本、文字通り、命を懸けて守ろうとした日本、先人たちが築き上げた現代の日本。
その基盤の上で、私たちは豊かさを享受しています。
でも、もしかしたら私たちは、先人たちのことを気づかないうちに忘れ去ろうとしているのかもしれません…。
あるいは、見捨てているのかもしれません。一人の日本人として、これを知らずに生きていて本当に良いのでしょうか?

今まで語られてこなかった戦争の裏には、何が隠されていたのか。
私たちの先祖が、どんな思いで苦難苦境を乗り越え、日本という国を守ってくれたのか。
本当の戦争について、裏も表も知ってもらいたい。
そんな思いで今回は書き綴らせて頂きました。

<編集後記①>

戦後の日本では、過剰な美談で語り継がれることもあれば、逆に「無駄死に」と言い捨てる人もいるなど、様々な意見がありました。

しかし、世界ではその見方が異なります。

「特攻隊は世界の戦史に見られない愛国心の現れであった。今後数千年にわたって語り継がれるに違いない」

これはビルマの初代首相バー・モウが語った言葉です。

他にも、フランスの初代文化大臣アンドレ・マルローは次のように語っています。

「日本は敗れはしたが、その代わり替え難いものを得た。それは、世界のどんな国にも真似のできない特別攻撃隊である。代償を求めない純粋な行為、そこにこそ真の偉大さがある」

このように、東南アジアやヨーロッパから賛辞を受けている神風特攻隊でもあるのですが、このような賛辞は、現代の日本では語ること自体がタブーとされる有り様です…。

<編集後記②>

「あの悠々たる白雲の間を越えて、坦々たる気持ちで私は出撃して征きます。生と死と何れの考えも浮かびません。人は一度は死するもの、悠久の大義に生きる栄光の日は今を残してありません。父母上様もこの私の為に喜んで下さい」

これは特攻隊員の“想いが詰まった遺書”の一部分です。

<編集後記③>

「あの飛行機に女が乗っているぞ!」

この声が空に届くことはなかった。

1945年8月19日。
妻を、恋人を乗せて、満州から飛び立った特攻兵たちがいました。

「まさか!」
と耳を疑いそうになりますが、これは紛れもない史実です。

日本兵の男は、“在満邦人が逃亡する時間を稼ぎ、ソ連軍の進撃を少しでも食い止めるため”。
そして妻は、ソ連兵による強姦被害が出る状況に、“辱めを受けるくらいなら、特攻して果てたい”という理由で夫への同乗を願い出ました。

太平洋戦争末期、航空特攻作戦によって散った命…。その数3903人。

それほどの犠牲者を出した特攻隊ですが、戦後76年経った今でも、その真相はあまり知られていません。

世界で類を見ない戦術、神風特攻。

あの時、あの瞬間、あの大戦で何があったのか、その真実を自分なりに今の気持ちで書いてみました。

今回も最後までお読み頂きまして、有り難うございました。

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