見出し画像

2021.8.24 土器が明かした“邪馬台国発見の大嘘”

奈良で卑弥呼の宮殿発見?
巨大建造物が示す“日本の起源”

2009年。
奈良県桜井市に位置する纒向(まきむく)遺跡と呼ばれる遺跡で、考古学的大発見があったことを皆さんはご存知でしょうか?

南北19.2m
東西12.4m
60畳を超える面積
3階建のビルに相当する20数本の柱の跡…。

上の写真にある遺跡から、当時の様子を復元してみると以下のような建物になります。

3世紀前半に建てられた、王の宮殿らしき巨大な建物です。

当時の日本列島では、これほどの床面積と高さを誇る建物は例がなく、ここは強大な権力者の宮殿であり、政治の中心であると考えられました...。

そして、この歴史的大発見があった直後、喜びの声をあげる者たちがいました。

それは、日本史上最大のミステリーである邪馬台国の在り処を探し求め続けていた歴史家たち。

なぜなら、中国の歴史書である魏志倭人伝が記す邪馬台国の年代とこの建物が建てられた年代が見事に一致したから…。

「これこそ卑弥呼のいた宮殿だ…。邪馬台国は奈良にあった」

歴史家たちはそう確信していました。

しかし、彼らの説には、どうしても辻褄の合わない3つの謎があります。

ここは邪馬台国ではありません。
実は本物の日本国のルーツに繋がる重要な場所なのです…。

現地の遺跡や遺物を分析してみると、通説を覆す壮大な日本の起源がありありと浮かび上がってきました…。

謎①
出土した土器が示す『魏志倭人伝の不正確さ』

邪馬台国の在り処を示す唯一の手掛かりとされているのが、『魏志倭人伝』という書物です。

これは、卑弥呼や邪馬台国について、唯一記述があるとされる中国の歴史書です。

魏志倭人伝には、
「邪馬台国は小国30ヶ国ほどを従えた国である」
と記されています。

しかし、この遺跡内で出土した遺物を分析すると、小国30ヶ国を集めただけの国家とは到底思えないほど、広い範囲を治めていた強大な国家の存在が浮かび上がってきました…。

注目すべきなのは、遺跡内で出土した無数の土器。

この土器の産地を分析してみると、実は奈良よりも東、北陸や東海などの土器が50%以上を占めていることが判明…。

つまり魏志倭人伝が記す、単なる小国の連合国家という規模ではなく、この地域が広大な範囲の領土を影響下にしていたことが窺えます。

それに、中国と邪馬台国の間で交流があったなら、中国系の土器が日本にあっても良さそうですが、それもほとんど見つかりません…。

もし邪馬台国がこの遺跡であるなら、この土器が示す魏志倭人伝の不正確さは一体何なのでしょうか?

謎②
「魏志倭人伝の示す邪馬台国の人々の容姿」と「遺跡の人々の容姿」の相違点

さらに不可解なのが、魏志倭人伝に描かれる邪馬台国の人々の容姿が、実際の日本人の容姿と一致しないという点です。

魏志倭人伝には、当時の人々の容姿について次のように記しています。

<男子は皆被り物をつけず、布を頭に巻いている。皆、顔や体に入れ墨を入れている>

ですが、当時の人々の容姿をよく表した埴輪を分析してみると、魏志倭人伝の示す容姿とは全く異なっていることが分かります。

人物埴輪の男子の多くは被り物をしており、布を頭に巻いている、と思われるようなものはほとんど出土していません…。

さらに、もし人々が入れ墨をしていたのなら、それを示す何かしらの遺物が発見されてもおかしくないのに、そのようなものが刻まれた埴輪も全く出土していません…。

なぜ魏志倭人伝が記す邪馬台国の人々の容姿と実際の人々の容姿には、これほどまでに乖離があるのか…。

謎③
出土した銅鏡が指し示す“時代”の謎

邪馬台国の記述で特に有名なのが、卑弥呼が中国へ度々使者を派遣し、交易をしていたこと。

魏志倭人伝には、
「239年、中国の魏皇帝が邪馬台国へ銅鏡を100枚を送った」
と記されています…。
では、実際はどうだろうか?

もしこの遺跡が邪馬台国だとすれば、中国との交流を示す銅鏡がたくさん出土するはずですが、しかし不思議なことに、この遺跡から出土した銅鏡は非常に微量。

さらに、出土した銅鏡の年代を科学的に測定してみると、卑弥呼の生きた3世紀のものではなく、4世紀のものだと判明…。
つまり、卑弥呼の時代と一致する銅鏡は何一つとして見つかっていないのです…。

発掘調査を幾度となく行なっても、邪馬台国と中国との交流を示す銅鏡が出土しない…。
一体なぜでしょうか?
そもそもこの遺跡は、邪馬台国だとすること自体が間違っているのでしょうか?

邪馬台国は無かった…、纏向遺跡には別の古代文明が栄えていた…。

魏志倭人伝とこの遺跡を照らし合わせても、その記述は非常に不正確であることが分かります。
邪馬台国はここにはないのです。
では、他の地域に邪馬台国はあるのか?
という疑問を持たれるかもしれませんが、それも違います。

魏志倭人伝に書かれていることは、日本のどの地域とも一致しません。
なぜかというと、そもそも魏志倭人伝の著者である陳寿が日本に来たことがないからです。

日本に来ていないということは、伝聞や憶測で書いたということです。
そのような書物を信用できるでしょうか?
つまりこれは、フィクションに近い書物と言えます。

邪馬台国という国自体が、近畿はおろか九州にすら存在しない可能性が非常に高いのです。

では、この歴史的大発見とまで呼ばれた遺跡は、一体誰が統治し、どのような国が栄えていたのでしょうか?

これが邪馬台国でないというのならば、一体「何者」がこの地を繁栄させたのか…。

そうした場合、この遺跡には、邪馬台国とは異なる別の文明が存在したと言う仮定が成り立ちます。

その別の文明は、“東方からやってきた天皇家”…。

上の地図は、神戸大学と摂南大学の教授が、2009年に研究レポートとして発表した縄文時代の地方別遺跡数です。

千葉県や茨城県の南部など、関東方面にやたらと縄文遺跡が集中しているのが分かります。

これは、当時の縄文人が太陽信仰をしており、神としての太陽が昇る東に集まり崇拝するためだったと考えられています。
そして、この遺跡の集中具合から、縄文時代にはすでにリーダー的な存在が、関東に太陽に崇拝する巨大な祭祀国を形成し統治していたとも見て取れます。

それが今の天皇家に繋がる家系だった…という仮説です。

天皇家の家紋はよく菊の御紋と言われ、鎌倉時代に後鳥羽上皇が菊を好んでいたのをきっかけに、この頃から徐々に定着していったと一般的に言われていますが、実はこの紋、菊のように見えて菊ではありません。
カタチをよく見てみて下さい。
太陽を象徴しているように見えないでしょうか。
天皇家の信仰の対象は太陽です。

天皇の歴史を示す日本書紀には、東国に『日高見国(ひたかみのくに)』という国があったと書かれています。

つまり、この日高見国こそ、この関東に集中した縄文遺跡のことを表しており、天皇家の祖先はそこで祭祀国家を形成し、ここで縄文人たちは豊かな生活を営んでいたと考えられます。

しかし、平和な時代も長くは続きませんでした。
隣国では、秦の始皇帝が中国を統一。
そうなると当然ですが、外敵に備える必要があります。
つまり国防という考え方です。

いち早く日本全国を統一し、軍事国家を築かなくてはならない…。
そのために、天皇家は東日本から西日本に移動する必要が出てきたわけです。
その大移動が縄文から弥生にかけて起こりました。

それが、初代神武天皇の移動です。
日本統一のため、九州にやってきた天皇家の一団は、そこから東征して奈良にやってきました。

これが神武東征の真実です。
そして神武天皇は、この地域を拠点としてヤマト王権を建国。
これが日本国家の起源です。

この遺跡に関東系の土器が出土し、太陽信仰を示す遺跡が存在するなど、東国との関係が深いのは、東の日高見国から西へ人々が大移動した何よりの証拠です…。

そしてこの遺跡こそ、今の我々が生きている日本国家の原型として建国されたのです。


もし、今まで歴史教科書で教えられてきたように、魏志倭人伝という中国の文献のみに固執し、
「日本初の連合国家は女王卑弥呼が統治した『邪馬台国』だった」
という通説を信じていたら、我々が今住んでいる『日本国のルーツ』は決して分かりません。

しかし、魏志倭人伝が記す歴史を疑い、現地の遺跡や遺物を丁寧に分析していくことで、日本が太古の昔である縄文時代から国を形成し、そして国を守るため奈良に巨大な統一国家を築いたことなど、先人たちが歩んできた誇らしい日本の建国の歴史が浮かび上がってきます。

日本は決して歴史の浅い国ではなく、先人たちが育んできた世界最古の歴史が蘇ってきます。

本来ならば、このような日本の起源に関わる大事な歴史は、学校教育でも教わるべきお話です。
なぜ我々は、そんな誇らしい日本の歴史を知らないままなのでしょうか?

実は、戦前の教育は古事記、日本書紀に記された神話を土台にしており、教養に溢れる物語として当たり前のように神武天皇から始まる建国の歴史を教えていました。
しかし残念なことに、戦後になると、GHQがこの教科書に墨を塗らせ、挙げ句に回収し、世の中から抹殺してしまったのです。
なぜそんなことをしたのか?
理由は簡単です。

それは、この神武天皇の教科書が放った爆発的な精神のパワーの塊が、当時の日本人を突き動かし、一億玉砕を謳い、国民全員が火の玉のような武士道精神に燃え滾らせたと考えたからです。

アメリカ兵は、日本兵の屈強な姿に怖れ震えながら戦いました。
もう二度とこんな強い日本は見たくない…。
日本人のこの精神を根底的に消滅させ、アメリカに従わせるためには歴史の否定しかない…。

日本人の洗脳工作の一環として間違った歴史、改ざんされた日本史が強要され、日本精神は深く傷つけられました。

GHQによって本来の建国の歴史が記された古事記、日本書紀が否定された結果、戦後は魏志倭人伝という中国の文献ばかりを参考にする歴史家で溢れ、日本国のルーツが全く伝えられないようになってしまいました。

そして現在の日本の教科書では
「日本の歴史など大したことはない」

「まるで古代の日本は中国の属国だった」
とアピールするかのように、古代中国との関係から語られ始め、天皇の血筋とは関係のない『女王卑弥呼と邪馬台国』がまるで日本国の起源かのように記されています…。

我々はそんな中国の文献のみに固執した歴史教育を受けていたために、
「自国の起源がどういうものだったのか?」
「日本人はそもそも何者なのか?」
ということが分からなくなり、日本人としてのアイデンティティすらも破壊されてしまったのです。

このまま今の学校教育のように、愛国心を育まない教育が続けば、日本は、
「自国の歴史など大したことはない」
と思い込む人で溢れ、自国に誇りを持てなくなり、日本人としてのアイデンティティも失われたままになるでしょう。

それが、これからの未来を担うはずの子や孫の世代にも受け継がれていったら、日本衰退の一途をたどっていくことになりかねません…。

ですが、日本という国の起源をしっかりと理解することができれば、
「日本の歴史は中国や朝鮮と比べると大したことはない」
というような見方になることは有り得ません。

なぜなら、下の年表の下部を見れば分かるように、隣の中国や朝鮮が常に『建国』と『滅亡』を繰り返してきたのに対し、日本は縄文時代の日高見国から始まり、そして神武天皇のヤマト王権建国から2600年以上、一度も天皇家の王朝を途切れさせることなく守り続けてきた、現存する
「世界最古であり、最長の国家」
だからです。

自国のルーツを現地の物的証拠と共に理解することで、「世界最古の歴史」の重要性とその価値の高さに改めて気付き、日本が古来より世界に類を見ない「ユニークな歴史」を育んできたことに誇りを持てるでしょう。

今回は、奈良の纒向遺跡と神話の記述を照らし合わせることで、先人たちの記憶を掘り起こし、戦後断ち切られた「日本国家の起源」を蘇らせ、正しい建国を多くの日本人に知ってもらい、日本を誇らしく思える人が増えることで、それが子供や孫の世代にも伝わり、結果的に日本全体が愛国心を持てるようになっていく、そんな希望ある未来になることを願い書き綴ってみました。

今回も最後までお読み頂きまして、有り難うございました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?