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2022.12.21 日米大戦“最後通牒”の実態
1941年11月、米国は『ハル・ノート』と呼ばれる最後通牒を突きつけ、日本はそれをきっかけに真珠湾攻撃に踏み切ったと教科書には書かれています。
ですが、『ハル・ノート』は決して最後通牒ではありませんでした。
一体、どうして日本は『ハル・ノート』を最後通牒として受け取ったのか?
それを読み解いていくと、真珠湾攻撃に隠された日米両国の思惑が浮かび上がってきます…。
今回は、この思惑について書いていこうと思います。
大いなる誤解
日米大戦を巡っても極めて重大な歴史上の誤解があります。
それは、ハル・ノート。
すなわち、コーデル・ハル米国務長官から日本政府に提案された、あるメモに関するものです。
中高の歴史教科書では、これが開戦前の最後通牒かのように扱われていますが、真相は異なります。
まず、ハル・ノートとは一体どのようなものなのか。
研究者も含めほとんどの人が、その実物を見たことがないと思いますが、原文はアメリカのレターサイズ、日本で言えばA4より少し短くて幅が広いものに書かれています。
そして、この紙の一番上の方に、
「これは一時的なディスカッション用です。最終決定ではございません」
と大文字で書いてあります。
このことは、日本ではほとんど知られておりません。
そもそも実物を見たことがないので誰も分からない、といった方が正確かもしれません。
タイミング
ハル・ノートが出された日時についても、誤解と混乱があるように思います。
私たちは、ハル・ノートを否定したことで開戦せざるを得なくなったのだと教えられてきました。
しかし、このノートが野村大使に渡された1941年11月26日には、既に北海道の択捉島から大日本帝国連合艦隊が真珠湾に向けて出撃していたのです。
大本営は11月26日以前の段階で、英国と米国、そしてオランダと戦争することを決めておりました。
しかも、それは御前会議での決定です。
しかし、日本では、ハル・ノートのせいにして、
「仕方なく戦争をした」
と言っているのです。
時間的に順序が逆なのです。
ハル・ノートは最後通牒ではございません。
前述の一番上に書いてある通りです。
真相
大本営は戦争がしたくて、うずうずしていました。
しかし、昭和天皇は、
「外交的になんとか解決できないものか」
と仰っておりました。
そんな大本営にとって、ハル・ノートは正に格好の材料を提供したのだと思います。
彼らは自分たちの都合の良いように、それを解釈したのです。
一方のルーズベルト政権も戦争がしたくして仕方ありませんでした。
しかし、当時アメリカには、『アメリカ・ファースト』という言葉がありました。
これは最近の話ではなく、20世紀前半の話です。
アメリカは海外の戦争に、二度と参戦しないという方針です。
すなわち、アメリカ国民は、何か大きな出来事や問題がない限り絶対に戦争をしない。
そんな決意を持っていたわけです。
そこで起きたのが真珠湾攻撃でした。
ルーズベルト大統領はこの日を『屈辱の日』と呼びました。
この真珠湾がなかったら、米国民は絶対に日米開戦を支持することはなかったでしょう。
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