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2021.12.26 海保を突破し、尖閣を囲む中国船

3.5メートルの波に叩きつけられて10時間

今回は、政治活動家でやおよろずの森の会長でもある葛城奈海かつらぎなみさんの著書を一部抜粋して書き綴っていこうと思います。

葛城さんが初めて尖閣諸島を自分の目で見たのは、中国漁船が海上保安庁の巡視船にぶつかってきた事件から、1年と少し経った2011(平成23)年11月1日のこと。

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新刊『戦うことは「悪」ですか』では、こう記しています。

<午前3時、石垣島の南側にある新川漁港から出航。バラバラと雨が降ってくる。
…ほどなくすると吉本船長から
時化しけてるから予想よりだいぶ時間かかるよ」
と言われる。
30分ほどで外海に出ると、そこからの波は容赦なかった。
波高3.5m。
一波ごとに船体が海に叩たたきつけられるので、「木の葉のよう」を通り越して、まるでビニール袋の中に入った小石のようだ。
ビニール袋ごと、スナップを利かせて海面に打ち付けられるような感じなのだ。
漁船は人に優しくできていないことを文字通り痛感した。
そもそも座席がないから、船室内にディレクターチェアのような椅子を持ち込んでいる。
だが、その椅子は船体に固定されていないので、一波ごとに吹っ飛ばされそうになる。
そうならないために、どこかにしがみつきたい。
しかし、残念ながら、握る場所もない。
仕方なく横にある船窓のサッシを握ろうとするのだが、これまたそんな空間は存在していないので指ではさむようにして必死でまむしかない。>

と、こういった状態が10時間ほども続いて、ようやく尖閣海域に着かれました。

こんな思いをしながらも、葛城さんは尖閣海域に何度も足を運んでいます。

平成26年までの3年間で15回。

途中で引き返さざるを得ない事もあり、出航回数は20回にもなると言います。

この行動力には敬服致します。

国を思い、憂える思いの強さからでしょう。

「なんという倒錯した光景だろう」

葛城さんは、これだけ頻繁に尖閣海域に出かけているので、現地での実体験を具体的に伝えてくれています。

2012(平成24)年9月に尖閣諸島が国有化されました。

翌年に尖閣海域に行かれた際には、こんな体験をされています。

<翌4月に集団漁業活動として10隻で訪れたときには、…中国公船が8隻で領海に侵入してきた。
このころから、中国公船はわれわれとの距離を詰めてくるようになった。
公船が接近してくると海保は、
「危ないですから、逃げてください」
という。
おかしな話だ。
尖閣は、日本の領土領海で、領土問題は存在しないのではなかったか。
であれば、なぜ、
「われわれが守りますから、みなさんは安心して漁をしてください」
と言えないのだろう…。
そして、忘れもしない、7月1日未明。
4隻で出航し、いつものように夜明け前に南北小島および魚釣島前の海域に達した。
…ほどなく海保から
「中国公船が接近していますので、気を付けてください」
と連絡が入った。
その言葉が終わるか終わらないかというタイミングで、大きな中国公船「海監51」が視界に入り、目の前、魚釣島すれすれのところを悠々と横切っていくではないか。
そんな状況であるにもかかわらず、海上保安官たちは、背後の中国公船よりも目前のわれわれ漁船に向かって、
「1海里以内に入らないでください」
を連呼しているのだ。
続いて、このひと月前に鳴り物入りで就役しゅうえきした最新艦「海監5001」も大きな顔で島の前を横切っていく。
…付近には「海監23」「海監49」もいる…。
魚釣島に一番近いのは、中国公船、その外側に海保の巡視船、その外側に海保のゴムボート、そして私たち日本漁船。
この状況を第三者が客観的に見たら、魚釣島はどこの国の島に見えるであろうか。
日本の海のお巡りさんが日本人の接近を阻止している内側で、中国公船が
私たちをあざ笑うかのように何度も行ったり来たりしているのだ。
なんという倒錯した光景だろう。
誰がどう見ても、魚釣島は中国の島にしか見えないはずだ。>

尖閣に灯台を自費で建設し、維持してきた日本青年社の義挙

「国土や国民を守る気はあるのだろうか」
と疑問を抱かせる政府の対応をカバーしてきたのが、民間の志ある人々です。

それらの人々の活動を、葛城さんはこう記しています。

<1978(昭和53)年4月、100隻を超える中国の武装漁船が尖閣諸島海域に侵入し、一週間にわたる威嚇いかく行動を行ったことがあった。
このときの政府の対応に危機感を抱いた日本青年社が、同年8月、魚釣島に上陸し灯台を建設した…。
以後、毎年、同隊の隊員が上陸して電池の交換、保守、維持管理を行ってきたという。
そうした活動によって、日本の領土や主権が主張できたばかりでなく、周辺を航行する船舶と漁民の安全を守ってきた。
実際、灯台設置から2年後の1980(昭和55)年8月には、台湾から神戸に向かう途中だったフィリピン船籍のMAXIMINA STAR号が台風によって遭難したものの、灯台の灯りを発見。
灯りを頼りに灯台前に座礁ざしょうし、上陸隊の宿舎に避難して、そこに蓄えられていた食料により、乗組員23名全員が無事救助された。>

こうした実績ある灯台を、1990(平成2)年に海上保安庁は正式な航路標識として認めましたが、外務省の「時期尚早」の声で、『国有灯台』として国が認知し維持管理を引き継ぐまでに27年も費やしました。

<この間、体を張り、毎回100万〜200万円もの支出を重ねながら50回以上にわたって上陸、灯台建設、補修費と合わせると数億円以上をかけて日本の領土を守るいしずえをつくってくれた日本青年社の行動は感謝と称賛に値すると私は思う。
が、右翼団体というフィルターをかけたメディアも、この義挙を正当に評価、報道してこなかった。
毎回、尖閣に行くたびに最初に迎えてくれるのは、魚釣島のこの灯台の灯りだ。
明滅するひとつの灯が、「尖閣に帰ってきた」と感じさせてくれる。
国の妨害にひるむことなく灯台を建設、保守点検し続けてくださった先人たちへの感謝の思いを忘れずにいたい。>

かつての尖閣諸島で240余名が定住していた

“先人たちへの感謝”と言えば、尖閣諸島で事業開拓を図った古賀辰四郎の努力も忘れてはなりません。

今は無人島になってしまった尖閣諸島。

その中の最大の島、魚釣島うおつりじまには、かつて3000余坪の岩山を切り開いた広大な平地に事業用の建物が並び、240余名、戸数99戸が定住していました。

およそ60haの耕作地を開墾して穀物や野菜を植え、食糧の自給体制を築いていました。

沖縄県の実業家である古賀辰四郎による開拓事業の成果です。

1895(明治28)年1月14日、古来より無人無主の島であった尖閣諸島を日本政府が領有宣言をすると、翌明治29年9月、古賀は魚釣島他3島を借り受け、開拓事業に着手しました。

明治30年3月、古賀は遠洋漁船(帆船)を建造し、これによって出稼ぎ移民35名を送り込みました。

翌31年には大阪商船の汽船・須磨丸(1600トン)を借り、自ら移民50名を率いて渡島しました。

当初、有望な事業と見なされたのは、アホウドリの羽毛採取でした。

羽毛布団などの用途に、神戸や横浜の外人商人に好評でした。

しかし、採取量を現場の作業者任せにしていたため、乱獲によって数年で採取量が激減してしまいました。

古賀は明治32年に単身上京し、動物学者であり東京帝国大学の教授でもある箕作佳吉みつくりかきち博士に教えを乞いました。

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箕作博士は弟子の理学士である宮嶋幹之助を推挙し、宮嶋は現地調査の上、絶滅を防ぐために採取量の制限を助言しました。

既に伊豆大島の鳥島などでは、アホウドリの羽毛採取で巨万の富を築きながら激減させてしまった前例などがあり、こうしたやり方は、古賀には目先の利益だけしか考えない愚行としか見えませんでした。

宮嶋の助言に従って6,7年捕獲量を抑えていると、アホウドリの数も復活してきて安定的な量が採れるようになりました。

こうして、古賀は明晰な判断力に基づいた先見性で、尖閣諸島の事業開拓に取り組んでいったのです。

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アジサシ類の剥製事業、カツオ漁とカツオ節製造

尖閣諸島開拓の7年目、1904(明治37)年には、カモメの一種であるアジサシ類の剥製事業を始めました。

当時、欧米ではその剥製を夫人の帽子とするファッションが流行していました。

ただ、剥製の職人を見つけるのが一苦労で、古賀は横浜で南洋帰りの剥製職人16人を雇い入れました。

明治39年には20余万羽、翌40年にはその2倍以上の取引に成長しました。

また、剥製製造の際に出る鶏肉から、油は機械油に、肉や骨は肥料にして売り込みました。

アジサシ類の剥製事業を始めた翌年、明治38年には古賀はカツオ事業を始めます。

まず、カツオ船3隻を内地において新造し、宮崎県より熟練のカツオ漁師と鰹節製造人10人を雇い入れ、魚釣島にカツオ節製造工場も建てました。

明治41年に古賀村を訪れた琉球新報主筆の宮田漏渓は、カツオの大群が数十キロの“魚道”をなし、その上では数万、数十万羽の海鳥が乱舞して、海中に突っ込んではカツオを追い回している様に驚嘆しています。

この“魚道”は、魚釣島からわずか1〜2kmしか離れていなかったために、一日4度もの出漁が可能であり、大漁の際には1万尾近くも水揚げがあったと言います。

カツオ漁を始めた時に新造した3隻のカツオ船は、その年に襲った暴風で3隻とも破壊されてしまったので、翌39年には5隻を新造しました。

古賀の事業才覚のスケールの大きさに驚かされます。

採れたカツオからはカツオ節を作ります。

カツオ節に熟練した職人を雇ったので、市場からは高い評価を得ました。

明治42年の大日本水産会主催の第一回カツオ節即売品評会で、古賀が出品した尖閣諸島産のカツオ節は、二等賞銀杯を受賞しています。

労働者の移入と汽船による往来

こうして古賀の事業は順調に拡大していきましたが、当初は労働者の確保に苦労しました。

なにせ、絶海の孤島、無人島に行くというのですから、始めに応募してくるのは、仕事に溢れた一癖も二癖もある者たちで、驚くほどの多額の賃金を要求しました。

ところが、島での仕事に慣れると労働は容易で、収入は多いと分かり、出稼ぎから戻った労働者が内地で吹聴したため志望者が増えていきました。

明治33年からは、家族同伴も差し支え無しとしました。

古賀は一時的な出稼ぎ労働者ではなく、現地に定住する移住者を求めていました。

労働者が増えると、賄い婦など婦女子の仕事も増えていました。

明治40年には、医師1名を募集しています。

また、契約期間が過ぎるとせっかく技術を覚えても、内地に帰ってしまう年季奉公ではなく、『永久的労働者ノ移植』を目指して、明治41年には宮城県と福島県から7〜11歳の子供たち11名を成人になるまでの契約で連れてきました。

移住者の一人に山形県師範学校卒業生がいたので、教育の任にあてる予定でした。

また、産物の輸送や人の移動のために、航海の安全も考えて汽船を購入しています。

明治40年には11回も汽船が回航しています。

ほとんど月一回の頻度で往来していました。

ますらおのかなしきいのちつみかさね」

明治42年、古賀は尖閣諸島の開拓功績が認められ、藍綬褒章らんじゅほうしょうを授与されました。

この章は教育、衛生、産業開拓などに功績のあった人を顕彰するもので、沖縄県では二人目の受賞でした。

古賀の友人で沖縄県出身の衆議院議員だった御得久朝惟ごえくちょういは、受賞を喜び、
<尖閣経営の初めは、多くの人が危ぶみ、中には陰で笑いものにする者もいた>
と沖縄毎日新聞に寄稿しています。

それほどの難事業を、古賀は果断に取り組んできたのでした。

先述したように、古賀村は最盛期には240余名、戸数99戸が住んでいました。

何枚かの写真が残っていますが、その集落の中心には10mほどの高いポールに、幅1.5mほどの大きな日の丸が掲げられています。

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遠くを通る船からもよく見えたでしょう。

古賀の積極果断な尖閣開拓の姿勢には、自分は国境の島を開拓しているのだという使命感があったと感じられます。

しかし、大正に入ると突然、古賀村は消失します。

これは巨大台風により、住居や生産施設などが破壊されたからではないかと推察されています。

こうして、15年ほどの繁栄の時期を終えて、尖閣諸島は再び無人の島に戻ります。

今日、無人のちっぽけな島など中国と戦争するくらいなら、あげてしまっても良いなどという人もいます。

しかし、一つ言えることは、国土の尊さは経済とはまた別の次元の価値だということです。

そして、その尊さは、古来から国民がその国土を守り発展させようとした努力の積み重ねから来るものでしょう。

古賀辰四郎の尖閣開拓の苦闘、日本青年社の人々の灯台設置と維持、漁船衝突事件のビデオを職を賭して公開した一色正春氏、葛城奈海氏等の尖閣防衛の訴え…。

最後に、歌人の三井甲之みついこうしの短歌を一つ。

ますらおの かなしきいのち つみかさね つみかさねまもる やまとしまねを

今回も最後までお読み頂きまして、有り難うございました。


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