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2023.11.27【全文無料(投げ銭記事)】元寇で日本を勝たせた陰の功労者

日本史上、外敵の侵攻により震撼した元寇。
この元の侵攻に対し、日本では国が一つとなって結束しましたが、朝鮮では内紛が起こるといった、全く真逆の歴史を辿ります。
なぜ日本は朝鮮のような裏切りも内部分裂もなく、挙国一致の体制を20年以上も保持できたのでしょうか?

今回は、その体制を保持できた影の功労者について書き綴っていこうと思います。

18年かけて亀山上皇像を完成させた執念

博多駅から2kmほど北にある東公園。
その中心の小高い丘には、高さ5m近い亀山上皇の銅像があります。

【出典:福岡県文化財データベース】亀山上皇銅像

像を建てた中心人物は湯地ゆじ丈雄たけお
福岡県警察署長を務めていましたが、明治19(1886)年の長崎事件をきっかけに銅像建立を決意しました。

長崎事件とは、清国が誇る世界最大級の戦艦2隻を含む北洋艦隊が長崎に寄港した際に、500人もの清国水兵が長崎の町で乱暴狼藉を働き、止めようとした2人の巡査を殺害、遂には多くの長崎市民との大乱闘になって多数の死傷者が出た事件です。

湯治は事件後の現地を視察しながら、元寇の際の惨禍を思い起こしていました。

対馬や壱岐を襲った元軍は、武士を全滅させ、女子供は手に穴を開けて荒縄を通し、ふなべりに吊したと伝えられていました。

湯地は清国の脅威に対して、日本の全国民が国家の危機に覚醒しなければ、それ以上の惨禍に見舞われると危惧しました。

そこで決心したのが、元寇当時、身を以って国難に代わらんと祈られた亀山上皇の像を国民の寄付を集めて建てることでした。

湯地は警察を辞職し単身、全国を飛び回って総計100万人を超える聴衆に元寇の話をして寄付を求めました。

皇室、政治家から小学生までの賛同を得て、像が完成したのは明治37(1904)年。
決意から18年の月日が流れていました。

その間に日清戦争が起こり、完成は日露戦争の真っ只中でした。

清国とロシアという大国を相手にして日本が勝てたのは、挙国一致で国難に向かえたからです。

それには、湯地の国民啓蒙活動も大きく寄与していたでしょう。

母国にあだなす高麗人たち

元寇当時の日本も、朝廷では亀山上皇、幕府では北条時宗を中心に、国全体が一致結束して国難にあたりました。

その挙国一致がなかったら、同時期の高麗のように元の属国となり、徹底的な収奪を受けていた可能性があります。

この挙国一致ぶりを見る前に、反面教師として高麗が元に服属する過程を書いておきます。

井上靖の歴史小説『風濤ふうとう』は『元史』『高麗史』を基に書かれたもので、そこには蒙古皇帝の命令書などが多数引用されています。

歴史学者の宮脇淳子氏はその内容を確認して、
「十分に学問研究にも耐えられる内容」
と評価しています。

物語の導入部で、蒙古皇帝から日本国王に信書を送るので案内役を務めよという、高麗王に対する命令書が引用されています。

その冒頭には、ある高麗人が皇帝に進言した事実が語られていました。

それを読んだ国王と高官たちは、その高麗人に対する“呪詛と怒りの言葉”を発しました。

その高麗人は、自分の点数稼ぎで皇帝に進言したのでしょうが、それによって母国が対日侵攻に巻き込まれるのです。

日本にとっても多大な迷惑ですが、高麗にとってもその後、大変な苦難をもたらします。

この部分で、作者の井上靖は次のように述べています。

過去に於ても現在に於ても、蒙古に帰附し、蒙古の朝廷に仕えている高麗人は決して少くなく、彼等は母国との関係に於て、多かれ少なかれ、母国にあだなす役割を占めるのが常であった。

井上靖著『風濤』

その代表が洪茶丘こうさきゅうです。
10代の時から皇帝の代理としてやってきては、高麗国王に頭を下げさせて命令を伝えていました。

高麗の土地や内情をよく知っているだけに、皇帝に入れ知恵して国王が言い逃れできないような命令を次々ともたらします。

洪茶丘は元軍が日本に押し寄せた時も、司令官の一人となりました。

その祖父は、蒙古が高麗に侵入を始めた時の国境での防衛戦で降伏し、以後は自ら蒙古軍の先鋒となって母国の侵略に加担した人物でした。

蒙古は敵国人ではあっても、母国を裏切って戦う人物を重用したのです。

裏切り、反乱、陰謀の中で

裏切り者と言えば、天才的な人物もいました。
高麗の西海、北界の首長を殺し、60城の蒙古皇帝への寄進を申し出た崔坦さいたんです。

蒙古皇帝はこの希望を入れ、これらの地域は蒙古の直轄地にしてしまったのです。

崔坦は蒙古皇帝の臣下となり、寄進した土地の領主に収まりました。

また、三別抄さんべつしょうという高麗王朝の私兵組織がありましたが、彼らは蒙古への服属に反対して江華島などに立て籠もり、自らの王を立てて独立しようとしました。

彼らを鎮圧するという建前で、蒙古は大軍を高麗国内に送り込み、その糧食を供給するために高麗人民は塗炭の苦しみを味わいました。

三別抄の反乱鎮圧には3年ほど掛かりました。
そのお陰で、日本への侵攻が遅れたなどと恩着せがましく言う向きもあるのですが、彼らは日本侵攻を遅らせるために反抗したわけではありません。

逆に、日本侵攻を蒙古皇帝に示唆したのが高麗人だったという史実は、留意しておく必要があります。

また、半島特有の誣告ぶこく(事実を偽って処罰を求めること)も
何度も見られました。

国家と国王への深い忠誠心を持つ金方慶は、蒙古皇帝の過酷な指図を少しでも和らげて、人民の苦しみを軽減しようと何年も苦心を続けた老臣ですが、かつての部下たちから、
「反逆の企てあり」
という訴えが出されて、真冬に屋外で裸で立たされ、杖で打たれて自白を強要されます。

これは洪茶丘が金方慶に、
「叛心があった」
と自白させることによって、それを口実にして半島全体を直轄地にしてしまおうという魂胆のようでした。

その魂胆を見破った金方慶が、最後まで自白をしなかったことで、この事態はなんとか防ぐことができたのです。

こういった逆臣、反乱、誣告の中で、皇帝の日本侵攻の命令を受けつつも、なんとか国と人民を守ろうとする二代の国王と金方慶ら忠臣の生き様は、泥中の蓮のように心を打ちます。

朝廷と幕府の一致

高麗の内紛ぶりに比べれば、日本の挙国一致ぶりは鮮やかです。

元寇とは、単に『神風』が吹いて偶然に日本が救われたというような単純な話ではないことは皆さんも既にご存知でしょうが、特に2度目の弘安の役(1281年)では、蒙古・漢・高麗兵4万に加えて、水軍に長けた南宋兵10万が来襲しましたが、石塁による防備と小舟による逆襲で2ヶ月近くも敵の上陸を防ぎ、そこに『神風』が襲ったのです。

本記事では、如何に当時の日本が挙国一致の体制で戦ったかという点を中心に書いていこうと思います。

まず、蒙古からの最初の国書が届いた際に、時の幕府執権は僅か18歳の北条時宗。

時宗はその後、14年間、元の使者への対応、石塁構築、西国の武将らの動員、二度の戦役と奔走しました。

そして、弘安の役の3年後にわずか34歳で亡くなります。

正に元寇から日本を防ぐために、天から送られた人物のようでした。

国書には、
<通交しないならば、兵を用いることも有り得る>
と武力で脅し、更に、
<大蒙古国皇帝奉書(書を奉る)>
と自国を上段に構え、その下に小さく“日本国王”と書いてありました。

「これは無礼な!」
と時宗は眉を逆立てました。

幕府は、外交が朝廷の専権事項である事を踏まえて対応を相談しました。

朝廷の関白は、これも僅か23歳の青年の近衛基平もとひらでした。

当時は、一部の公家が南宋との貿易で莫大な利益を上げており、形式だけなら属国となっても、巧みに交易して利益を上げればよいという意見もありました。

しかし、基平はそうした意見を抑え、回答せずとの断を下しました。

幕府も、鎌倉武士の面目にかけても、これを無視すべきと考えており、朝幕一致して使者を太宰府から追い返しました。

この後も、蒙古は何度も使者を送ってきますが、朝幕一致の方針は揺るぎませんでした。

朝廷と幕府は、我が国の長い歴史においては、何度も対立を繰り返して来ましたが、この国難に一致結束して当たったことは、なんとしても独立を守るという決意を共有していたからでしょう。

身を以って国難に代わろうと祈られた亀山上皇

時の後宇多天皇は8歳で即位したばかりでした。
後に『末代の英主』と称えられる賢帝となりますが、当時はその父君で26歳の亀山上皇が院政を執られていました。

亀山上皇は弘安の役に際しては、京都の石清水八幡宮に参詣の上、徹夜で戦勝を祈られました。

また、特に自分でお書きになった願文を伊勢の神官に奉って、御身を以って国難に代わろうと祈られたのです。

現代的な感覚では、このお祈りの持つ意義は想像しにくいことですが、当時の人々は神仏に助けられたり、祟られたりする事を現実として信じていました。

『古事記』では弟橘媛おとたちばなひめが、倭建命やまとたけるのみことと船で海を渡ろうとされた時、波が荒れ狂って進めなくなりました。

ここで、弟橘媛は自らの身を海に投じて海神の怒りを解き、夫君の使命達成を助けたのです。

御身を以って国難に代わろうとの祈りは、このような切迫したものだったでしょう。

そして、神仏の存在を現実と信じていた当時の人々は、上皇の御祈りの切実さをありありと感じとることができたと思われます。

高麗を服属させ、また南宋をも大陸南部に追い詰めつつあった蒙古軍に対して、人々の間に恐れや動揺が当然広がっていたでしょう。

そういう中で、亀山上皇が御身を以って国難に代わろうと祈られ、その御祈りのもとで朝廷と幕府が一致して戦いの覚悟を決めたことは、恐れや動揺を抑え、国全体の闘志を掻き立てたものと思われます。

挙国一致の力

時宗は諸国の武士に号令を発します。
九州の守護地頭には防備をいよいよ厳重にさせ、四国から中国の御家人にも九州防備への協力を命じました。

また、幕府の御家人でなくとも、軍功があれば十分に恩賞を与えると約束して武士全体を防備に加えました。

最初の文永の役(1274年)では、蒙古の戦い方に慣れず苦戦を強いられましたが、幕府は各自が武功を挙げようと勝手な抜け駆けをした事を戒めて、
<天下の大難を顧みざるの条、はなはだ不忠なり
との命令書を発しました。

また、再度の来寇に備え、九州各国の御家人たちに三ヶ月交替で警固に当たらせました。

更に博多湾沿岸に十数kmに渡って、高さ2mほどの石垣を築かせました。

この石垣が7年後の弘安の役では、元軍の上陸阻止に大いに役立ちます。

更に敵の上陸を待って戦うのではなく、積極的に洋上で斬り込みを行うべく、艦船の建造と水夫の徴集を行いました。

これで、壱岐や各他で日本軍が攻撃を仕掛け、士気を大いに盛り上げました。

また、弘安の役で元軍を撃退した後も、第三次侵攻を想定して、警固体制は何年も続けられました。

驚くべきは当時の武士たちが20年以上も十分な報償も無いまま、こうした役目を黙々と果たしたことです。

自由な独立統一国家としての伝統意識

如何せん、外国軍を撃退しただけでは、恩賞に使える新たな土地が手に入りません。

奮戦した御家人たちは恩賞のない事に不満を覚え、これが鎌倉幕府の弱体化に繋がったとは歴史上の定説ですが、そんな当たり前のことよりも、歴史上最大の国難に際して、どうしてこれだけの挙国一致の体制が、裏切りも内部分裂も起こさずに20年以上も維持されたのかを考えなければなりません。

その根底には、我が国が神武天皇により『一つ屋根』の統一国家として建国され、聖徳太子の外交によって、中華世界の冊封体制から独立した国家として宣言されたという伝統的な国家意識が、人々の心の中に根付いていたからではないでしょうか。

その国家意識を心中に抱いていれば、自分たちの代でむざむざと外国の属国となってしまっては、先祖にも子孫にも顔向けができないという責務を感じざるを得ないでしょう。

その伝統を築いてきた皇室の代表者として亀山上皇が、御身を以って国難に代わろうと伊勢の大神にお祈りになり、その伝統を維持すべく朝廷と幕府の責任者が国家としての独立意思を宣明し、それを国民一人ひとりが当然の責務として受け止めたということではないでしょうか。

この伝統的な国家意識が、挙国一致をもたらした力として働いたのではと思います。

独立自尊の精神をもたらす国家ビジョン

元の皇帝フビライは、第三次の日本侵攻を何度も計画しますが、財政は疲弊し、地方では反乱が相次いで、その野望を果たせないまま病没します。

後継者テムルが皇子を遺さずに死ぬと、激しい後継者争いが起こり、1368年には地方の反乱の中から身を起こした朱元璋が皇帝に即位して、明を建国し、元を北方に追いやります。

この時、高麗は親元派と親明派に分裂して抗争が起こり、1392年に親明派の武人李成桂がクーデターを起こし、高麗を滅ぼして李氏朝鮮を興しました。

常に強い国に付き従うという『事大主義』は朝鮮の通弊で、近代に入ってからも日本か清国かで日清戦争を引き起こし、次に日本かロシアかで日露戦争、アメリカかロシアかで朝鮮戦争と、近代東アジアのトラブルメーカーとなってきました。

現代も、アメリカか中国かという対立で国論が二分されています。

この『事大主義』では挙国一致も不可能です。
その根本には独立自尊の精神の欠如があり、それは自国がどういう国を目指すのかという国家ビジョンがないまま、強い方について利益をとろうという姿勢から来ているのでしょう。

こうした朝鮮と日本の伝統的な国家意識の違いを考えれば、現在の中華帝国主義がもたらしている国難に対して、どう立ち向かえば良いかは明確です。
亀山上皇像はそれを物語っています。

最後までお読み頂きまして有り難うございました。
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