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2022.1.24 大谷翔平選手も尊敬する日本人スパイ

さて今回は、生存率8%という過酷な『軍事密偵』の任務を完遂し、日露戦争の勝利に貢献した1人の日本人のエピソードを紹介したいと思います。

実はこの人物、メジャーリーグで大活躍中の大谷翔平選手が愛読書として紹介し、現在注目を集めている書籍の著者でもあります。

一体、彼はいかにして過酷な任務を成し遂げたのか?

その成功の秘訣とは何だったのか?

そして、大谷翔平選手は、なぜ彼の本を愛読しているのでしょうか?

それでは、続きをお楽しみ下さい。

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中村天風てんぷう
彼は生まれて以来、ものすごいエネルギーの塊の人間でした。

子供の時から喧嘩をすると、相手の手をへし折るとか、あれは耳を引き裂くとか。
これくらい気の強い子どもでした。

そして、名門の高校を退学して、頭山満とうやまみつるという男の弟子に入りました。

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この頭山満という男は右翼の大物で、西郷隆盛を心から敬愛する素晴らしい偉人。
まさに、東南アジア独立の根っことなるようなアジアを興す、『興亜』という考えの持ち主でした。

天風は彼の門下生となりましたが、門下生が誰も敵わないくらいの力を持っていました。

柔道はできるし、剣術は『天風斬り』と言われるくらいの達人…。
全部、凄腕でした。

ある時、河野という陸軍中佐が頭山満のところに来て、
「お前の塾の中で一番強い根性のある、気合いのある男を選んでくれ」
と言うと、一も二も無く頭山満は、
「中村天風だ」
と指名しました。

そして、
「日清戦争に備えての軍事密偵になってくれ」
ということで、天風は東京に行っていろいろなことを教わり、河野中佐のかばん持ちという形で朝鮮半島や満州をあちこち訪ね回って、地形偵察を行いました。

中国と朝鮮を隔てる鴨緑江という大きな川がありますが、日本が日清戦争をする場合には、その川を大軍が渡らないといけない…。

その川を渡るところはどこが一番いいのか。
川を制する要点というのはどこなのか。
そういうものを見つけるわけです。

そして、天風が集めた情報を基に、
「ここが渡りやすい」
と、参謀本部で地図が作られ成功するわけです。

日清戦争で上手くいったのだから、続く日露戦争にも軍事密偵として参加してくれということになりました。

この時は、何千人という中から113名が選ばれたのですが、満州に入っていって生き延びて帰ってきたのは9名しかいないという過酷なものでした。

彼は、軍事密偵として情報を集めただけではなくて、ハルビンにあったロシア軍の兵站基地や鉄道などの破壊任務も遂行しました。

天風は、ハルビンでお春という売春宿の女郎に出会います。

彼女は騙されて満州に連れて行かれ、馬賊と結婚し、後に馬賊の頭目となった人です。

天風は、このお春と仲良くなり、情報の提供や襲撃、爆破も手伝ってくれる関係になりました。

また、天風がお春の拠点を離れるときに、
「お前の愛人にしてはどうか」
と、玉齢という十数歳の若い女の子を貰い受けますが、天風は帰りがけに彼女を家まで送り届けて帰してやりました。

そして、彼が次の任務に入ろうとした時、運悪くロシアのコサック兵に捕まってしまいます。

彼は、ロシア皇帝の命令で銃殺ということになって十字架にはりつけにされ、まさにロシア兵の“撃ち方用意”の声のあとで撃たれそうになった時、後ろから手榴弾が飛んできて十字架もろとも吹っ飛ばされます。

銃殺されそうになっていた天風の処刑場を銃を構えて襲撃したのは、ハルビンのお春一行でした。
その中には玉齢もいましたが、彼女は天風の身代わりとなってこの世を去りました。

そういうこともあって、天風は玉齢が死んだ日を自分の第二の誕生日と名付けて、自分が亡くなる日までずっと供養したという話が遺っています。

このように天風は、人を大事にすることによって情報を手に入れたり、命を救われたりしていました。

天風は軍事密偵をしている間、腐ったじゃがいもを平気で食べたり、ボウフラの湧いた濁り水を飲んだりして死線を潜ったのですが、帰国してからはアッという間に結核の中でも一番も猛威を振るう奔馬ほんま性結核に罹りました。

しかし、天風は、どうせ死ぬんだったらヨーロッパとアメリカの最高の医学を研究して、それで生き残ろうということで欧米に渡ります。

その間、医学や哲学の最高峰の人たちに教えを請いましたが、結局、治療法は見つかりませんでした。

フランスのマルセイユから船に乗って帰って来る途中、イギリスの軍艦の故障によりスエズ運河が不通になり、
「それでは冥土の土産にピラミッド見学をしよう」
と言って、アレクサンドリアで降りてホテルに泊まりました。

そこで、天風は大喀血をして、もう死ぬ間際でした。

それを見たホテルのボーイが、そのままでは死んでしまう、だから飯ぐらい食わせてやろうと、天風を食堂に連れて行きました。

そこにはターバンを巻いた変わった人物がおり、つかつかと天風のところへ寄ってきて、
「お前の肺は真っ白で使い物にならない。もうすぐ死ぬ。どうだここで死ぬか、それとも俺についてチベットに来るか。俺に付いてきたら俺が助けてやる」
と、迷信のような言葉を言います。

もうどうせ死ぬと覚悟を決めていた天風は、今更そのような言葉を疑って死を待つよりは良いだろうと判断し、
「ぜひお願いします」
と言い、その先生に付いてインド洋を渡ってボンベイに行き、さらにボンベイからは陸路でヒマラヤの山麓の山の中に分け入って、わずか2年半のヨガ修行を経て悟りを開きました。

普通であれば一生修行をしてもそう簡単に開けない悟りを、彼は結核を治そうという一念の下に2年半でマスターしたのです。

そして、そのヨガのエッセンスを日本人にできるようなものに改良を加えたものが『心身統一法』と呼ばれています。

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『心身統一法』で人生を切り開いた人たちの中には、帝国海軍元帥の東郷平八郎、元総理大臣の原敬、彫刻家の北村西望、大相撲横綱の双葉山、パナソニック創設者の松下幸之助、元プロ野球選手の広岡達朗氏、京セラ創業者の稲盛和夫氏 、元プロテニスプレイヤーの松岡修造氏ら各界の著名人も多く、最近の人物では、冒頭で紹介したメジャーリーグで大活躍中の大谷翔平選手が、天風が開いた法を実践しているのです。

最後までお読み頂きまして、有り難うございました。


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