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2022.2.5 石原慎太郎先生が語った『人生という航海の終わりに』[前編]

巨星堕つ…。
2月1日、石原慎太郎先生がお亡くなりになりました。

沈まぬと思っていた太陽が沈み、高齢でもあるが故に、ある程度の予期も覚悟もしていたはずなのに、未だ深い喪失感を抱いています。

皆さんも新聞やテレビ、オンラインニュースなど、多くの訃報を目にされたと思います。

各界の人々が、様々に石原慎太郎先生を語っています。

私はテレビのコメンテーターでもないので、ご冥福をお祈りするばかりですが、一つ言えるとするなら、歯に衣着せぬ物言いが、石原慎太郎という人物の醍醐味だったのではなかろうかと思います。

作家でもある石原慎太郎先生ですが、今回は、戦後70年の節目に刊行された著書『歴史の十字路に立って 戦後七十年の回顧』(PHP研究所)から、【終章 人生という航海の終わりに】で綴られた石原慎太郎先生の言葉を2回に分けてお伝えし、皆様なりに先生の言葉を受け止めて頂ければと思います。

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■特攻隊員から「お母さん」と呼ばれた鳥濱トメさん

この頃、意識して思い出すのではなく、しきりと自然に思い出されてならない人たちがいる。
一人は、鳥濱トメさんだ。

あれは昭和四十一年だったと思う。
私は、ある出版社に頼まれ、宮崎の都城での文化講演会に出かけ、その夜泊まる指宿温泉に向かう途中の物見に、以前読んだ高木俊朗氏の特攻に関する著書『知覧』で知った、かつて特攻隊員たちの世話をして慕われたという鳥濱トメという老女に会いに行った。

私なりに、敗戦間際から行われた特別攻撃には強い関心があったが、まだ知らずにいた知覧という不思議な地名の九州の田舎町を基地にして、沖縄に出撃していった陸軍航空隊の特別攻撃隊に関する高木氏の労作に衝撃を受け、そして、その悲劇の舞台に鳥濱トメという町の食堂の女将が、その年頃からしても、彼らの母親代わりとしてあったということに、ある強い印象を与えられた。

しかし、私が指宿に向かう途中知覧に立ち寄ったのは、物書きとして以前の、まったくただの好奇心のせいだった。

出版社の取り持ちで町の役場から連絡してもらい、面会の約束を得て講演を終えた後車で知覧入りし、町の人に所在を質してトメ女の、その時は旅館も兼ねていた富屋食堂に行った。

老境に入ったトメ女は、本などの写真で見た昔の姿よりもふとって見えたが、初対面の私は、そのほうが若い隊員たちに「お母さん」と呼ばれていたのに相応しい人に見えた。

そして、彼女の昔語りは何から何まで、苛酷な時代に青春を送った若者たちの至純の姿を伝えて、聞く者の胸に滲みわたるように、しみじみと印象深いものだった。

高木氏の本を読んだ後も、特攻関係の資料を幾つかは目にしていた。

それらの記録の幾つかにも彼女のことが記されていたが、老女がじかに訥々とつとつと語る挿話は、特攻という事柄が戦時のこととはいえ、いかに異常なものだっただけでなく、それを間近に目にし、彼らに心を重ねてきた人の、何はばかることのない平凡で真摯な述懐は、事が事だっただけに聞く者の襟を正させた。

実際に私も同行していた雑誌の編集長も、知らぬ間に正座してトメ女の話を聞いていたものだ。

出撃しながら生き残ってしまった隊員の悲劇や、密命である出撃の報せを彼女にだけは打ち明け、明日南海の海で死んでいったら、真っ先にここへ自分の好きな蛍になって帰ってくると約束して飛び立っていった隊員が、本当にその日その時刻に、もう冬枯れていた裏庭の藤棚の下の井戸から、たった一匹蛍になって現れたという話など、どれもみな打ちのめされるような話ばかりだった。

その中で、なぜか一番印象的だったのは、戦争がすでに終わって、もう町に誰もいなくなってしまった後の挿話だった。

ある日の夕方、隣の部落に用事があり、以前出かけていって柵の外から出撃していく若者を、手を合わせ、祈り見送った特攻隊の飛行場の柵沿いの道を久しぶりに通りかかった。

時刻はもう黄昏時だった。

その時、突然彼女を迎えるように、今は一面菜の花畑に変わってしまった飛行場跡の、かつて隊員たちの兵舎のあった辺りに、何かで火をともしたように長く、一列に無数の鬼火が燃え上がり激しく揺らめいたそうな。

驚いたトメ女は、連れの宿の女中と一緒にその場にしゃがみこんで、手を合わせ懸命に拝んだ。

暫くすると、その祈りが届いたように、無数の鬼火は一つずつ揺らいで消えていったという。

「恐ろしいけれど、とっても綺麗な眺めでしたよ」
思い出すように目を閉じながら彼女は言った。

そんなトメ女も、平成四年に八十九歳で身罷みまかった。

私は、時の総理大臣だった宮澤喜一氏に官邸で会い、彼女に国民栄誉賞を
贈ってほしいと進言したが、宮澤氏は、
「ほうほうほう、そうですか。しかしこれは切りがありませんからなあ」と、にべもなかった。

私はこの人物の、人を慈しむという感覚の薄さに、その場は怒りというよりも、遣る瀬無い思いで胸が塞ぎそうだった。

そしてしばらくして怒りが込み上げてき、
「わかった、あなたは嫌なのかね」
と質したら、彼もはっきり、
「はあ、嫌ですな」
と言ったものだった。

そう聞きとったので、私も開き直って面と向かって言ってやった。

「嫌なら結構だ。しかしね、あんた、そんなことだと必ず罰が当たって近い内に野垂れ死にするぞ」

そう聞いて、彼は身をのけ反らして睨み返してきたが、私はそう言い放ったまま総理室を出てきた。

他に人はいなかったが、あの部屋で一応天下の総理大臣にあんなことを言ったのは私くらいだったろう。

そして私の予言の通り、当時自民党を牛耳っていた金丸と小沢の所謂飼い犬でしかなかったあのこまっちゃくれた男は、彼らから一方的に首を切られて、まさに無残な野垂れ死にをしたものだった。

そしてその時以来、宮澤はどこかで私と顔を合わせても外方そっぽを向いて口もきかなくなった。

■苦境の中でひたむきに生きた塚本幸一氏

特攻隊の母だった鳥濱トメさんの他に、もう一人、私がその話を聞くうちに、いつの間にか正座をしていたのは、ワコールの創業者の今は亡き塚本幸一氏の話だった。

氏は若い頃、あの無謀極まりなかったインパール作戦に従軍していた。

インパールはインド北東部、ミャンマーとの国境近くの都市で盆地にある。
作戦開始は昭和十九年三月。

塚本氏の属していた中隊は、水源や橋梁の爆破など、敵の後方を断つのが任務だった。

敵は英印軍で、制空権を握り、インパール高原に戦車や重火器を整え待ち構えていた。

塚本氏の中隊約二百名は、インパールの市街北方にある要衝エクバン高地の奪回を命じられた。

敵は山の上から絶え間なく砲火を浴びせてくる。

激戦が続き、明け方近くには味方は四十名足らずになっていた。

三か月に及んだインパール北面での戦いの後は、アラカン山脈を越え、チンドゥイン川の渡河地点をめざしての敗走が続いた。

標高二千メートルを超える険しい山岳地帯、切り開いた道の両側には戦傷兵、戦病兵が点々と横たわり、死体に叩きつけるように雨が降っていた。

渡河地点に着いても援護する工兵の姿はなく、船も満足にない。

携帯した食料も、とうに底をついていた。

塚本氏の部隊は三カ月ほど密林を彷徨さまよった末、ようやくビルマに入り、イラワジ川西方のウントウに集結した。

昭和二十年正月のことだ。
三月に入ってマンダレーで市街戦になった。

その頃にはみんな極度の栄養失調でガリガリに痩せ、着衣はボロボロ、野良犬同然だった。

それでも戦い続けたが、もはや大勢は明らかだった。

タイとビルマの境に向けて転進中の五月、ある山中の湿地にさしかかった。

わずか百五十メートルほどの湿地帯に橋が出来ていると見えたのは、力尽きて斃れた仲間たちの亡骸なきがらだった。

「我々は戦友の屍の上を橋代わりにして、許せ、許せと言いながら踏み締めてやっと渡ることが出来たんだよ」
と塚本氏は淡々と語っていたが。

「そんな行為はいかに極限状態の戦場とはいえ、まともな神経で出来るものではないよな。家内の話だと、戦後十年以上経っても、俺は夜中、時々大声で獣みたいに吠えたそうだよ。でもそれは戦争の夢を見ていたわけじゃないんだ。どこか意識の底に沈殿していた思いが、時に唸り声となって出たのだろうな」と。

私は、ただただ聞き入るだけで言葉がなかった。

昭和二十一年六月、塚本氏は出征してから五年半ぶりに帰還した。

復員船から上陸した浦賀から、三十人一組で窓のない貨車に放り込まれ、家族の待つ京都に一晩かかって辿り着いた。

塚本氏は京都駅に着くなり仲間を並ばせ、
「これから護国神社まで行進、戦友の霊に帰還の報告をする」
と言い出したが、MPが飛んできて、
「復員兵の団体行動は許さない。直ちに解散しろ」
と命令されたそうな。

しかし塚本氏は、護国神社に参拝しないとどうにも気がおさまらない。
家族との再会もそこそこに家を飛び出した。

「あれほど賑わっていた護国神社が今は人影もまばらだった。夏草がぼうぼうと茂り、荒れるにまかせていた。神前にぬかずいて、今後の誓いを立てて参道を降りてきた時、草むらでガサガサ音がする。物音には反射的に身構える習慣がついていたので、音のした方角の様子をうかがうと、草むらの中に進駐軍の米兵と派手な化粧をした黒髪の女性がいた。一瞬、女性が襲われていると見えたのは、錯覚だった。それまで俺は、日本女性は銃後の花、大和撫子といった清らかな思いを抱いていた。それが、同胞の祀られている境内の一隅で敵だった米兵と戯れていたんだよ。言いようのないショックに、俺は無我夢中で走り去ったよ」

トメさんにしろ塚本氏にしろ、私が心を惹かれるのは、彼らは彼らなりに苦境の中でひたむきに生きた人たちだということだ。

私が、文学と並んで政治という手法を人生の中で選択したのは、とどのつまり、こうした思いや記憶を抱え生きる人たちのために、家族も含めて愛着ある者たちのために、うしなわれつつある祖国の本質を取り戻し、確かめたいと思ったからだ。

そのことは、この今になっても変わりはしない。

しかし、自分はどれほどそれを果たし得たのだろうかと、改めて問わぬわけにいきはしない。

後編につづく…

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