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知らぬ間に押しつけられる価値観に気づく

気づかぬ間に、押しつけられている価値観って、怖いなと思う。最近そういうのに気づいてくることが増えて、もっと自分の価値観大事にしないとな、と思う。

少し久しぶりに会った人に「彼氏できた?」とか「いい人見つかるといいね」みたいなことを言われると、「彼氏いないのは不幸せで、残念なこと」みたいな意味に思えてくる。

言ってる人はそこまで考えてないのかもしれないけれど…。彼氏がいたり、結婚してたり、子供がいないといけない、そうでなければ不幸せ、そんなふうに思ってしまう。

あとは、他に話題はないのか?と思ってしまう。自分も他の人に、聞いてしまうことはあるのだけど(反省)

何か話しかけはしたいけど、とりあえず思いついた話題がそれだった、という苦肉の策なのかもしれないので、話しかけてくれたこと自体はありがたいと思うようにしたい。

最近、今までの人生で、何となく感じていた違和感に気づくことが多い。

テレビのニュースって表面的だなーとか。
新卒が退職代行使ってすぐ辞める、みたいな話も、最近の若者は…論を助長する話に聞こえる。そう明言はしたら問題になるだろうから、コメンテーターとか言わせてたりすると思うけど。

テレビでやっている内容も、もちろん面白い企画もあるのだけれど、これって何の意味があるんだろう?とか思うものとか。テレビばかり見て生きてしまったら、と思うとゾッとすることがある。

今読んでいるブレイディみかこさんの『ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー』を読んでても思うのだけど、外国人への偏見とかもコミュニティ内で形成されて、誰も覆せない、覆さない空気があると思う。

『ぼくはイエローで…』の中で、著者が過去に保育所で働いていた時のエピソードが描かれている。その保育園の子どもたちは、親が同性カップル、片親など、いわゆる「普通」からは外れていると思われる家族の形をしている。だけど、社会で言われる「普通」など知らない子どもたちは、それぞれの家族の形を特に違和感なく、当たり前に受け入れている。

絶対的な「普通」などないのだから、本来はそうあるべきなのだけど、社会に出るにつれて、その価値観に知らぬ間に染まってしまう。自分が多数派で間違っていないと安心したい、少数派になって仲間はずれにされたくない、とか、色々な思いが交錯して「普通」であるべきだ、という価値観が形成されていくのだと思う。

自分で自分にかけた呪縛が多すぎて、生きづらくなっていると気づきを得て、最近は自分の中のルールを外して、心がワクワクする方を選択して生きることを心がけている。

音楽が好き、とか、自然が好きとか、周りからどう思われるか気にせず、好きなことの中から心からやりたいことを探している。今までそれをやってこなかったので、まだ最終的な道は見えていないのですが、本来の自分を取り戻す方向に進んでいる気がしている。

どこかの本で読んだ「人生は死ぬまでの暇つぶし」という言葉が印象に残っている。世のため、人のためになる有意義なことをしないといけない、と以前は思っていたのだが、結局暇つぶしなのだから、好きなことをやれば良いんだな、と思えた。

知らぬ間に刷り込まれる価値観があると気づくことができたのも成長の一つ、と考えられるようになってきました。雑多な内容になってしまいましたが、何か気づきがあれば嬉しいです。

ここまで読んでいただき、ありがとうございました。

salar

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