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愛についての覚え書き 03「あちらにいる鬼」

 たいていの妻はこんなときには行かずに、かわりに夫を問い詰めたり詰ったり泣きわめいたりするものだということも知っていたし、「たいていの妻」がどこにいるのかもわからないと思っていた。私にとっては行くことがいちばん簡単だった。なぜなら自分がすでに篤郎を許そうとしていることがわかっていたから。

                    「あちらにいる鬼」井上荒野

 許せることと許せないことの線引きはひとそれぞれだ。あるいは許せないけれど許してしまうこと、許せるけれど忘れられないこと。
その境目は曖昧で、けれど確かに、自分の中に線が引いてあるような気がする。
 「たいていの女」は、許して、許して、また許して、程度の差こそあれ、ある日ぷつんと糸が切れる。そうなったらもうその糸は元に繋がることはなく、そのまま気持ちが超特急で下降線をたどる。どんなに愛していたひとであれ、その瞬間を迎えると、もう二度ともとには戻れない。わたしも「たいていの女」であるから、そのことがよくわかる。

 「あちらにいる鬼」は、井上荒野の実の父である作家・井上光晴とその妻、そして出家する前の瀬戸内寂聴の三角関係を、実の娘が描いた小説だ。
 冒頭の文は、作家である白木篤郎の愛人の一人が自殺未遂を図り、夫の命により妻の笙子が、彼女の見舞いに病院へと向かう場面である(もちろん、夫はただの知り合いだなどとうそぶくのだけれど)。
 この淡々とした笙子の心情の描写はときに不穏で、ときに心苦しい。次から次へと女を渡り歩きつづけながら、しかし篤郎が笙子を愛していることもまた事実としてそこにある中で、笙子は感情を荒ぶらせることなく夫の共犯者のようにその浮気を見てみぬふりをする。

 そんな夫婦の間に現れるのが、女流作家である長内みはるである。
 みはるもまた、篤郎と不倫関係になるのだが、同じ作家であるという性質上、その関係は恋愛だけに留まらないように見える。それはきっと夫に寄り添う笙子も同じで、おそらく、その3人には愛情のみでなく、互いへの尊敬や憐憫という感情が混じっている。

”いつものことだが、私は不思議な気持ちで、そして少し憂鬱にもなって、夫の顔を眺めた。篤郎は仕方のない嘘吐きだが、こういうときの興奮や怒りだけは本物なのだ。それは彼という男の最悪なところでもある。砂は砂だけでできていればいいのに。”

”白木はいつでも、彼自身が本当の姿や、彼の中の事実から遠ざかろうとする筆の動きで、むしろそれを推進力として、虐げられた人々やどん詰まりの世界を書いていたように思う。”

 篤郎を愛した二人の女は、彼自身の本質に呆れながらも愛し敬い、そしてどこか眩しく感じていたのではないだろうか。それが彼の裏切りを凌駕するほどに。
 そんな愛に出会ってしまったら、きっとものすごく苦しむのだろうけれど、どこか羨ましく思うのは、私だけだろうか。使い捨てのように、簡単には切り捨てられない愛の深淵が、そこに見える。

 晩年、笙子とみはるは何度か顔を合わせる機会を得る。不倫ドラマのドロドロの展開などを期待したら肩すかしを喰らうような、穏やかな二人の時間が紡がれる。凪いだあとの海のような静けさで、二人は互いを受け入れる。

”わたしは彼女ともっと話したかったし、彼女をとても魅力的だと思っていることを伝えたかった。白木とわたしが男女の関係であった七年間が、彼女と白木の七年間でもあったというあたりまえの事実が、何か熱い湯のような、甘い蜜のような感触で私を覆っていて、わたしはうわあっと叫びだしたいような気持ちになっている。”

 みはるもまた、恋愛の甘い時期が過ぎ去ったあとも、彼と共にいながら篤郎の度重なる浮気に気付いていた。この世で唯一同じような時間を過ごした笙子に対して、そのような感情を抱くのは、もちろんとても不思議な関係なのだけれど、どこか納得できる。

 愛しているから独占したい、よそを見ないで欲しい、そんな単純で真っ当な欲求が叶わなくても、人は人を深く愛せるのだろうか。でもきっとそのためには、それだけ自分が必要とされているという自信が必要であるし、相手に対する「この人でなければ」という確信が必要なはずだ。でも自信や確信なんて、見えないからあってないようなもで、その根拠を探しまどい、だから人は苦しむのだ。みんないつだって、相手の自分への気持ちをカウントせずにはいられないのだから。

 どちらかというと、みはるよりも笙子の強さが、わたしの心を掴んだ。みはるの出家後、彼女が使用していたベッドを(もちろん、使用者はもう一人いたはずだ)篤郎が家に取り寄せ、夫婦の寝室に招き入れ、妻のベッドの隣に置いても、笙子は別れを選ばなかった。

”篤郎が苦しんでいるところを見ていいのは私だけなのだ。それはたぶん篤郎の意思であり、私の意思でもある。篤郎は海里と焔の父親だけれど、誰のものかというなら、私のものだ。” 

 篤郎が病に倒れ、寄り添い看病をする笙子は、長い時を経て最後のときに、ようやく彼を手にできたのかもしれない。
 そんな愛が真っ当でなくても、関係が歪であっても、でも世界のあちこちに存在している気がして、これと決めた(或いは決めるしかなかった)ひとを愛しつづける、そのひたむきさが、とても眩しい。











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