伊藤博文 vs 森有礼—立憲主義と天賦人権論—
大日本帝国憲法の制定の際、伊藤博文と森有礼の行った有名な論争がある。
これが「立憲主義」を考える上で非常に示唆的であるので、紹介しようと思う。
大日本帝国憲法は以下のようなたてつけになっている。
本稿で取り上げるのは、このうち第二章の「臣民権利義務」についてのものである。
そもそも大日本帝国憲法は、1882年に渡欧し、ベルリン大学のグナイスト、ウィーン大学のシュタインに師事した伊藤博文らを中心に制定作業が開始された。1884年に宮中に設置された(欽定憲法であるという性格を考えればわかりやすい)制度取調局で行政裁判、議会、皇室制度、そして地方制度に関する調査検討が行われた。制度取調局は1885年12月の官制改革で廃止されたが、その後、1888年4月、「至高顧問ノ府」(枢密院官制、勅令第22号)として設置された枢密院で本格的に審議され、1889年2月11日の「紀元節」に発布された。
この論争は1888年6月22日の午後、森有礼が突如、第二章「臣民権利義務」の題名に対して異議を申し立てたところから始まる。
森は、第二章の題名を臣民「権利義務」ではなく、これを「分際」と改めよというのである。
その理由はこうだ。
このあと森は「分際」の意を尋ねられ、「レスポンシビリテー」、つまり責任(responsibility)であると答えた。つまり、森はここで、臣民とは天皇が支配する対象であって、憲法のような重大な法典においてはその「責任」のみ記載すれば足りるとしたのである。
これに対し、伊藤は「森氏ノ説ハ憲法及國法學ニ退去ヲ命シタル説ト云フヘシ」と論駁し、以下のように続ける。
伊藤は、「君権ヲ制限」し、「臣民ノ権利ヲ保護スル」ことこそが憲法の精神であって、森の主張するように臣民の「分際」=責任を列記するのみであれば、そもそも憲法制定の必要などないというのである。
伊藤の、国家権力を制限して人権を保障し、憲法にもとづく政治を行うという立憲主義の考え方を体現した発言である。
このような伊藤の立場は、例えば大日本帝国憲法の準公式の解説とされる『憲法義解』のなかでも「各人の自由を尊重してその界限を峻厳にし、威権の蹂躙する所たらしめざるは、立憲の制に於てもつとも至重の要件とする所なり」(第23条、身体の自由についての条文)などさまざまなところにあらわれている。
さて、結局、森氏の主張は排斥され、草案通り、「臣民権利義務」が採用された。
大日本帝国憲法は天皇が主権者である点、また人民を「国民」ではなく「臣民」としている点、「臣民」の「権利」にいわゆる法律の留保を与えている点などから誤解されがちであるが、立憲主義の考え方は大日本帝国憲法においてもしっかりと採用されていることは忘れてはならない(これについては第四条についての話題もあるのだが、長くなるので別の機会に譲る)。
さて、ここまで読むと、薩摩藩出身で啓蒙思想団体明六社の創立を発議した人物として、また初代文部大臣として知られている森の先ほどの主張は少し意外に思えるかもしれない。
それもそのはず、森は何も立憲主義を否定しようとして先の発言をしたのではない。より正確に言えば、先の発言は、天賦人権論者・森有礼としての主張であった。
森は、そもそも財産権や言論の自由といった「権理」は、「人民」の「天然所持スル」もの、つまり憲法以前に所持しているものであるはずなのだから、憲法に明記することで逆に憲法によって初めて生じたものであるかのように記載することはできないという。
森は天賦人権論の立場から、人民の自然権(人間が生まれながらにして持っている権利)を強調したのである。
この論争は、憲法の保障の有無に関わらず人民は自然権を有するとする天賦人権論者の森と、憲法においてはそうした「あたりまえ」のことを明記して権利保障と君権制限を宣言することにこそ価値があるとする立憲主義者である伊藤の、権利保障の根源を巡る論争といえる。
本稿執筆にあたっては、以下の資料を参照した。
丸山眞男『日本の思想』(岩波書店、1961)
衆議院憲法調査会事務局「明治憲法と日本国憲法に関する基礎的資料」(2003)
浅古弘・伊藤孝夫 他編『日本法制史』(青林書院、2010)
伊藤博文著、宮沢俊義校註『憲法義解』(岩波書店、2019)*岩波文庫