親にかけられ続けた呪詛

これは、決して冗談や誇張ではなく、私が実の親から受けた発言・行為のまとめです。読者の様々な「トラウマ」を想起させる可能性があります。そしてそれに関して「私」の考えたこと、感じたことのまとめです。誰かを傷付ける意図はありませんが、否定されたように感じる文章もあるかと思います。あくまでも「私が自分の親に向けて言いたかった言葉」です。どうかその点をご了承の上、お読みください。


注釈が長くなってしまった。

Twitterのフォロワーは把握しているかもしれないが、私は今もまだ、親から受けた呪いに苦しんでいる部分が多くある。

正直に言うと、他人に向けて発言をする際、誤解のないように必死に「石橋を叩く」行為をしないと私は自分の意見を述べることができない。

それもまた、親から受けた呪いのせいだと私は思う。親の発言は全て自分にとって重く、暗く、世界の全てだった。だからこそ、この自分の親を否定する気持ちを人に「見せる」のが、余りにも怖い。

そして私は、複雑な家庭環境であることを自覚している。
実父、戸籍上の父、実母がメイン。
出てくる祖父母は全て母方。

そして、これを見た貴方に私はきっと説教をされるだろう。「親がいたからお前がここにいるんだ」と。そんなことはわかっている。でも私は、そういった感謝をすることさえ出来ないほどに重苦しい親の発言がどうしても納得できない。そういった気持ちがある。

記憶のない部分を母に聞かされたのと、強烈な痛みで覚えていること。F県に住んでた頃の話。

火のついたタバコで左手の甲を焼く

これだけでもかなりやばいと思う。まぁ私が悪い部分もあったのだろう。
居候させてもらってる身で、血の繋がってない
私が実の娘・孫より優遇されてる状態を理解しきれていない3歳ら辺の私が、親族に「桜弥ちゃんばかりズルい」とか文句言われた?か何かに対して発した「嫌なら出ていけばいいじゃん」という言葉に本気でキレた母がやったらしい。あちらにいた頃の記憶は殆ど覚えていないので母から聞いた話だ。

孫の手で鼻を殴り流血させる

これまた3歳とかそこら辺の時期。
母が言うには、「赤子である弟の上にのしかかったお前が全部悪い」らしい。
知らんがな。いや赤子の上に乗るんが悪いのはわかるがお前の口は何の為にあるんじゃ。暴力に訴えるしか能がないんか。ボケが。

目の前で母が首を義父に刺される

かなりショックでかいですね。ってかこれで記憶飛んだんじゃね?って思ったくらい、綺麗に残ってないんですよ、F県にいた時の記憶。


痛かったことはちらほら覚えてるんですけど、その前後かわからない。楽しかったこともあったはずなのに。何一つ思い出せない。

少なくとも、この辺りがショックで記憶が飛ぶやつのトリガーになったと思う。
何だっけ、ストレス性健忘?的な。
それ以降私は「忘れたくても忘れられない」になったけど。


ここからは母方祖宅で暮らしてた時期のやつ


弟が妹に「お姉ちゃんを殺せ」と命令、妹に首を絞められる

文字通り、命懸けだった。
そばに大人がいなかったんだ。幼少期。
後述するが、私は少食故に小柄で、病弱だった。6歳そこらの私より、4つ下の妹の方が力が強かった。
だから私は普通に死にかけたし、本気で暴れて妹の頭を掴んで食器棚に当てて、ガラスを割った。
音に気付いた祖父が様子を見に来て、私は「弟が妹に私を殺せって言って、妹が首を絞めてきた」をうまく説明が出来ずに、「弟が」しか言えなかった。
あまり感情を出さない祖父がぽつりと呟いた「恐ろしい……」が忘れられない。

後悔はしてない。だって私はあの時できる最善を行ったから。
酸素足りてなくて頭回らなかったし。

今も私の拒食症状の要因になっているだろうと思う出来事。

昔から私は少食で、健康上理想的な量を食べきることが出来なかった。そして三角食べができない子だった。

三角食べ出来ない理由は多々あるけれど、私は味覚、嗅覚が鋭いせいで、「味が異常なほど混ざる」感覚が気持ち悪かった。

どうしても吐くほどに、受け入れられなかった。

だから本来ならば良くないとされる「だけ食べ」を幼少期からずっとし続けている。

ある日、私は用意してくれたご飯をどうしても食べきれずに残して捨てた。

帰ってきた母が捨てられた残ったご飯を見て私の元へ来た。

あぁ殴られるだろうなと幼心に思ったのを覚えている。

それくらい日常だったから。

1.「好きな物だけ食べて残しただろ」

文章のようにこんな淡々とした言い方だったらどんなに良かったか。

実際は怒鳴る声に近く、ヒステリックに叫んで、私の頬を平手打ちした。

妹二人が施設に預けられていたのを当てこすり、

2.「施設に入ってる妹達がちゃんと食えてると思ってるのか!申し訳ないとは思わないのか!!」

なんて言われて、何度も殴られた。

余談だが、これが余りにも深く傷になっている。今でも私は「食事を残す」行為が苦手だ。「残したら怒られる・殴られる」という意識がいつまでもつきまとっている。

妹達を施設に入れたのも、自分じゃ面倒見きれないのも、親である母の責任のはずだ。

小学生の私に一体何を求めているんだ。この「大人」は。

幼い頃はそんな気持ちだった。


弟と外で遊んでいた際、弟が車道に飛び出してしまって、車と衝突した。


私は車道の反対側に行ったボールを取りに行かなければいけない、弟に「ここで待ってなさい」と言った。確かに言った。それを弟は無視して飛び出したのだ。
聞き付けて出てきた母からの発言は

「何でちゃんと見てなかった!」

でまた頬を平手打ち。

子供だけで遊ばせてる状態を少しでもおかしいと思わんか?親としてやるべき「保護責任」とは何なんだ?
この日から私は親への不信感が募っていったと同時に、「私がしっかりしなければ」と責任感を強く抱く5才児が出来てしまったのだ。
それからはずっと「お姉ちゃんだから」「ママの代わりだから」必死で必死で、背伸びして、自分のことも家のこともやって、ただただ必死だった。

母さんからの関心が欲しかった。


いじめられても、父親に犯されても、「頑張れない私が悪いんだ」と思考を止めたまま。

あくまでも今吐き出したいのは母のことなので父にされたことは最後の方にまとめるつもり。

一度、母に反抗したことがある。仕事ばかり、弟妹ばかり、私のことは放置するのに遊びに行こうとすると必ず行先、門限、きっちり干渉してくる。
普段構ってくれない寂しさから、「いてもいなくても変わらない」と思った私は、母に「死ね」と、初めて感情的になった。5歳の頃だった。
それを受けた母は、何を考えたのか、何を思ったのか、私は分からないが、泣くでもなく、怒るでもなく、淡々と包丁を持ってきて、着ている服を自切り裂いて


「そう思うならお前が殺せよ!!」

そう怒鳴りつけて鬼の形相で包丁を私に突き出してきたことだけが幼い私の脳にこびりついて離れない。

「怒らせてはいけない」「自分の意見を伝える時には誤解のないようにししなければいけない」という意識が、何をしてもどう伝えても感情的に怒鳴ってくる親の下では「意見を言わない方がマシ」の思考停止で感情を圧殺する「理想のいい子」になるまで、そんなに時間がかからなかった。


「勤行あげないから心が弱いんだ」

私が自傷行為をしていることを知った創価学会員の祖母の発言。
そのせいか、私は新興宗教が嫌いだ。
勧誘も、言動も、余りにも稚拙で私は悲しくなる。縋る先がそこしかないことが、悲しい。
そんな哀れみを抱かせるには十分な発言だった。
この日から、私は祖母を別の生き物と考えるようになった。
大好きな祖母の、醜くおぞましい一面がよりによってそれか。と頭を抱えた。

誰かの信仰を否定する意図はないよ。ただ私の祖母とその周りが嫌なだけ。


「お前がいたから諦めた」

幾度と受けたこの発言。

成人式、結婚式……そういった「人生の節目」に関する雑談をしようとすると

「私は行けなかった(出来なかった)」

「だからお前は行け(やれ)」

という風にまるで自分が被害者かのように私に言い聞かせた。

ずっとそれが苦しかった。
「お前を産まなければできたのに」

 と言われている感覚だった。


個人的に、一番嫌だった言葉が
「保険かけた、金出なくなるから自殺するなよ」


自殺しかけた子供に向かって言う言葉がそれか。心配でも怒りでもなく、結局は母が考えることは金か。と。
この言葉が私の奥深くに鋭く突き刺さって抜けないまま、私は今を生きている。

ぶっちゃけ結婚式挙げたら即縁切りでいいかなと思ってる。

実父にされたこと

私が今も精神科に通っている理由の1つだ。
認知の歪みを作り上げた原因でもある。
父はそもそも書類上での認知を行っていなかったので、遺伝子上の父ということになる。

私は当時、かなり他人に迷惑をかけた自覚があるので自分の行った悪事も全て隠さず書き残そうと思う。その点においてきっと不愉快に思う人もいるだろうが、これは私の後悔と呪詛の独白なのであまり気にしないでほしい。

恥ずかしながら私は当時、いじめが理由で不登校だった。
学校ではクラスメートから行われる容姿、人格の否定、時折殴られたり階段で突き落とされることもあった。
家庭内では親の代わりに家事をしたり、必要な勉強をしたり、いつ母に怒られるかわからない状態に怯えていた。

私が見出した唯一の逃げ道が、万引き……罪状にすると窃盗行為だった。
当時中学生で、お小遣い稼ぎとして父の仕事を手伝っていた。その売上からもお金をくすねていた。悪いことだとわかっていたのに。

私の「初めて」は父に奪われた。


なんのことはない、母と父は結婚こそしてなかったが、まぁそこそこ仲が良かった。
そしてそこから伝わってしまった訳だ。

何を言われたか、思い出したくもないほどにおぞましいのだが、書かねば誰にも言わず閉じ込めてきた呪詛を吐き出すことも出来ぬ。という訳で、ここからはかなり閲覧注意。









「どう償うのか」

確かに、本来私が悩むべきはそこだった。
まだ学生、それも就労が許されない年齢。でも私は嫌な予感がしていた。

車の中で、父と2人で、逃げ道もなく、父は話を続ける。

1.「ダルマにして海外に売るか」

都市伝説や怖い話、リョナといった過激な話が好きな人になら伝わるだろうが、念の為に補足しておく。「ダルマ」とは両腕と両脚を根元で切り落として身動きを取れなくさせた状態の人間のことだ。それをわざわざ肩口、足の付け根を指先でなぞりながら説明された。
……娘に向けて言う言葉じゃねぇ。

2.「内臓売るか」

まあこれはわかりやすいよね、内臓には色んな使い道があって高めに売れるんだとさ。

3.「俺の言うこと聞くか」

よりによって出してきた選択肢がそれ。
この人もまた、「自分一人の目先の欲」のことしか考えない人だった。
私に今まで沢山かけてくれた優しい言葉はなんだったのだろう。

この為だったのだろうか。

頭が真っ白になった。
ここは車の中、逃げられない。

脅迫を受けている自覚はなかった。

だって私が悪いから。
沢山の人に迷惑をかけたから。


今なら違うと断言出来る。
でも、当時の私は大人と向き合う時は全て思考も感情も放棄し、人形になることに徹していた。

それが一番、期待せずにいられて、裏切られることもなくて、苦しくなかった。恐怖も何も要らなかった。それでも私は人間だった。唯一、家庭外で信じられる大人だった父に裏切られた気持ちにもなった。悲しかった。怖かった。

逃げられないまま、私は壊れた。
大人を……人間を信じたい気持ちと、どこまで行っても人間な自分の愚かさと無知を、憎みながら、蔑みながら、私は今も希望を捨てられずにいる。

いつか母が自分の非を認めてくれることを
いつか父が謝ってくれる日を
いつか祖母が盲信を手放せることを


今もまだ、諦められずにいる。
どうせ無理だってわかってるのにね。


金と、身体は=にはならないよ。
たかが数万で私は男性への恐怖心しか手に入れられなかった。
毒親、毒家族、そういったものがすぐ目の前にいて、私に残ったのは「自分の感じ方を疑う」癖と、「人間への嫌悪」だった。

それと、これもまた無関係だけど。
自分はどうしても、暴力や暴言、親に自分を否定されてないのに、搾取もされてない、お金かけてくれてるのに、「親ガチャ爆死」とか、「毒親だ」がと軽々しく言ってる人に殺意が湧く。
親を交換してくれよ、そんなに良い親の元に生まれたくせに爆死だと言うのなら。

そんな醜い呪詛でした。見てくれてありがとう。


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