お世話になりました、東京。よろしく、長野。
4月から長野に住むことになりました。
自分の中での一つの区切りとして、東京生活の振り返りと想いの変化、今の頭の中なんかを書き残しておきたくて、書いてます。
基本的には自分のことを多少知ってくれていて、「最近なにしてるんだろうな」と思ってくれた人に向けていますが、個人的な過去の整理も兼ねているので長いです。というか、感情面の変化とその背景を言葉にしたら一万字超えになってしまいました。
長い日記だと思ってください🙌
興味がある人は、休みながらでも読んでもらえたらです。
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この記事を開いて、さらには続きを読もうと思ってくれている方。ありがとうございます!!
東京には6年いたらしい
はじめに、どんなことがあったかなぁと振り返ってみる。時系列で簡単に。
こうやって見ると、1年ごとに環境を変えている。96年2月生まれの28歳。2018年は、22歳?
当時はまったく思い描いていなかった世界線を、いま生きている。
特に大きな転換点は、3つ
書いてあるものはすべて個人的に大きな意味合いを持つ出来事だけど、その中でもとりわけ、価値観や人生哲学に影響を与えた転換点。
2021年:退職して引きこもる
4月、新卒として採用してもらったデジタルマーケティングの会社を辞めた。
家でPCに向かい、仕事をするために、まずはPCを開く。……ひらけない。手が、ふるえる。なぜか、涙がとまらない。入社前からの先輩でもありメンターでもあった上司と電話をし、退職することを決めた。というか、他に選択肢はなかったようにも思う。
退職してすぐはとても不安定な精神状態で、無能感と自己嫌悪。自分と未来への絶望。そんな感情が、どうやっても湧いてくる。そんなことないよと言ってくれる人に依存することで、なんとか存在している。死にたい、死んじゃダメだよ、なんで、もう疲れたよ。
そんな自分も嫌で、けど自分だけでは前向きになれない。というか、どうやっても前向きにはなれなかった。涙は突然あふれてくる。
数ヶ月の間は自分なりに、旅に出たり絵を描いたり友人に会ったり、なんとか前を向こうとしていた。けど、感情の波は激しく、旅先でもホテルの部屋に閉じこもっている。極力だれとも話したくないし、外に出て遊ぶ気力はない。
その中で、絵を描くことは自分にとって有意義で、自由な世界に没頭させてくれた。ただ、絵を描くにはエネルギーがいる。余力があるときにだけ絵を描いた。
病院には行かなかった。「あなたはメンタルの病気です」と突きつけられることを避けた。優しく接してくれる人の側にいればいいと思い、優しさに甘える。そうして近寄ろうとすればするほど、心の距離は離れていった。
人間関係のバランスを取るのが難しくなり、疎遠になってしまう人もいた。どうすればいいかわからない。
全身でしがみつき、寄りかかっていた柱が消える。だれかに依存し、失い、ひとりになる。かなりしんどい。頼りたいけど、失うことを考えてしまう。むしろひとりでいたほうがマシだと思い、だれかを安易に信じて頼ることを辞めた。この頃から部屋に閉じこもり、外に出なくなる。セミの鳴き声だけが遠くに聞こえる。
自分はなぜ生きるのか。生きる意味。自分とは何か。ぐるぐると頭を駆け巡り、それでも答えは出ない。ひとり、部屋の隅のベットの上で、一日中考える。すべての意味を失った感覚。やりたいことリストは、「1. 」を書いて終わった。
腹も減らない。実家にいるおかげで飯を食うが、気づけば体重は15kgほど落ちていた。
救いだったのは、実はひとりではなかったこと。家族と、心優しい友達や先輩がいた。本当に救いになった。そんな状態の自分を受け入れて、付かず離れず、自分のペースで休ませてくれた。少しずつ、少しずつ、意味を取り戻していく。それでも希望はない。やりたいことは出てこない。
金が尽きる。家族と友達のために、生きる。それが最初の意味。
2022年:花屋でアルバイトを始める
失業手当が切れるので、とりあえずバイトを探し始める。家から近く、PCを使わない仕事がいい。
ここで花屋を選ぶことになるが、そのきっかけは、退職時に電話をした元上司のインタビュー記事を思い出したこと。
大手企業を20代後半で退職後、3年かけて世界を周りこれまでに100ヶ国以上を旅した経験を持つ、ユニークでまっすぐでドでかい器を持つその先輩は「帰国したら花屋でもやろうかなと思っていた」ということを語っていた。
記憶違いかもしれないが、その言葉をふと思い出し、なんとなく花屋でバイトを探してみる。そうして、家から自転車で通える距離のてきとうな花屋に応募をした。面接で勤務可能な曜日と時間を聞かれ、いつでも大丈夫と答えると、その場で採用が決まった。
2022年3月、花屋の店舗スタッフとして働き始める。
久しぶりに職場で働くことへの緊張に加え、立ち仕事で足は棒になり、接客では作り笑顔、慣れない花の扱い。ほどなくして顎関節症になり、口をひらけずおかゆを隙間から流し込む。幸い1週間程度で回復した。
引きこもっていた分、体はきつい。でも辛いとは感じない。むしろ楽しさを感じていた。商店街の入り口にある小さな店舗は常に忙しい訳でもなく、色とりどりの花に囲まれながら、訪れるお客さんと会話をする。皆さまざまな理由で花を買いに来ることを知った。
5月、当時の店長が急遽退職してしまい、店長不在の期間となる。他のスタッフはママさんや副業で働いている人が多かったため、できるだけたくさん勤務した。シフト表だけ見ると完全に店長。
もちろん中身は花を触り始めてたった2ヶ月の新人。ヘルプとして大型店舗の店長やベテランスタッフの方々が来てくれた。たった1ヶ月ほどだが、この期間で学べたことは多い。花の下処理やディスプレイのコツ、花束の組み方、ラッピングのやり方。基礎となる部分を丁寧に教えてもらえた。
自分で花束を作るようになって感じたことは、「絵を描くことに似てるな」ということ。それぞれの花が持つ色や形、質感を組み合わせていくことが楽しくて、没頭できる。仕事にも慣れ始め、徐々に作り笑顔から自然に出る笑顔に変わっていく。お客さんからのオーダーにも対応できるようになってきた。
そうした日々を過ごす中で、花は「人と人をつなぐもの」という側面を持っているなぁと気づく。人から人へ、感情や想いを伝えるための1つの手段になっている。
それと同時に、「自然と人をつなぐもの」という側面もある。今も昔も、人は花を通じて季節を感じ、自然の生み出す美しさや神秘さに触れてきた。だから自宅用に花を買っていく人も、もちろんいる。
星空を眺めることや自然の中で過ごすことが好きだったのもあり、自分のしている仕事が自然とつながっていると感じられたことは、大きな出来事だった。より一層、花や植物への愛が深まっていく。
けれども、人の感情というのは難しい。そんな風に想いを馳せる時間もあれば、相変わらず不安の感情は現れる。だいたいの夜は、そういう感情と向き合い、胸の苦しみに耐えることの方が多かった。仕事でエネルギーを使い果たすので、ほとんど飲みにも行かない。誘いに乗って外に出てみても、端の席で静かに酒を飲んでいる。休みの日は家で過ごした。
「まだダメなのか」
「気持ちよく前を向かせてくれよ」
楽しいことを考えようとしても、気づけばいつもの場所でじっと考え込んでいる。部屋の隅の、ベッドの上。最後にカーテンを開けたのはいつだかわからない。
この頃、インターン時代の仲間の結婚式があった。その二人とは住む場所は違ったが、同じ立場で支え合ってきた、戦友とも呼べる大切な友だ。ありがたいことに友人代表のスピーチを任せてもらう。
出席者には当時の社員さんをはじめ、一緒に活動していたメンバーも多くいる。正直なところ、スピーチをするんだぞ!と自分を奮い立たせなければ、行けなかったかもしれない。それくらい顔を合わせることに抵抗があった。
肝心のスピーチは、事前に録音しながら練習もしたはずが、久しぶりの人前でしかもほとんどが知り合いで、緊張で飛んだ。なんとかその時伝えたいことを言葉にした。
式はとても素晴らしかったし、二人の晴れ姿は輝いていた。
それでも帰ってから、自分のふがいなさや情けなさの感情に押しつぶされて泣いた。
会場ではほぼ全員に「痩せすぎて別人」と言われたが、実際いろんな意味で別人だったと思う。
前職を辞めてから1年以上が経過し、新しい意味のタネを見つけても、精神的には安定してるとは言えない日々が続く。それでも時は流れていき、少しずつでも、前には進んでいた。
近くに住んでいた先輩や、花好きな友達がたまに店舗に足を運んでくれる。中には、前撮り用の花束をオーダーしてくれる友人もいた。自分の実力不足を痛感することも大いにあるが、そういう形で関わりをつくってくれることが、本当に嬉しいし励みになる。そして、花というものを通じてつながれることに、喜びを感じていた。
職場の人間関係も良好で、任せてもらえることも増え、新米の身ながら新しく入った人には学んだことを伝えたりもした。
それでもやっぱり、あの感情は消えてくれはしない。自分の未来に対しての漠然とした不安がふいに現れ、いっきに頭の中を支配し、胸を圧迫する。以前に比べて減ってはいたが、苦しくて叫びたくて、枕に顔を押し付ける夜はまだあった。
ある程度仕事に慣れた分、余裕ができたスペースは、自分を否定することに使われる。そんなことはまったく望んでいないのに。
日々の仕事が単調に感じられ、このままでいいのだろうかと考えてしまう。ずっと店舗のアルバイトで居続けたいとは、どうしても思えない。とはいえ、大型店舗に移動したり、その店舗で大きな責任を担うことは、今の自分にはできないと感じていた。どこに向かって進めばいいのか、わからない。
「また、すぐに辞めて別のことをするのか?おまえは」
未来は見えないどころか、日を追うごとに不安だけが募っていく。どうしようもなく現れるこの感情が、だんだんと、楽しいという感情を上回りはじめる。それでも花の仕事は好きだし、自分に合っているんじゃないかと直感的には思っていた。
そんな折に、植物のECブランドを立ち上げた先輩が、花の事業も始めるという話を聞く。
その先輩はインターン先の社長の古い友人で、学生時代に面識があったこともあり、快く話を聞かせてもらえた。そして自分の精神的な状態も含めて話した上で、「無理せずやればいい」と伝えてくれる。実際に入社するのはもう少し後にはなるが、また1つ、花を通じてありがたい縁がつながった。
そしてこのあたりから、自分の進んでいく道が、うっすらと見えたような感覚になる。そう感じたきっかけは、やっぱり友達だ。
12月に毎年恒例になっている友人三人を祝う誕生日パーティーがあるが、これまでは参加していなかった。
そこに、花束を作って持っていく。久しぶりに顔を合わせる友人たちはとても喜んでくれて、そのことを自分も嬉しく感じる。花を渡す以外のときは前に出ないし、他の会話を聞きながらおとなしく酒を飲んでいたが、花を喜んでもらえただけで十分だった。
やっぱり、花を誰かのためにつくることは、好きだなぁと思う。
2023年、花と植物のECスタートアップに移る。
PCは、学生時代からずっと生活の中心にあった。前職でも旅先で仕事をすることは多かった。辞めてからはあえて遠ざけていたPCと触れる生活だが、色々な迷いもあり年始は職業訓練でAIのプログラミングを学ぶことにした。
元から興味はあったしとりあえずやってみるかと始めたものの、やはり、1日中カタカタやるのは楽しさよりも疲れの方が大きい。修了するまでは通ったが、序盤でその道を進む気持ちはなくなった。やっぱり花をつくっている方が楽しい。
訓練と並行して、先のECの先輩、社員さんと改めて会う機会をもらう。スタートアップという環境への不安もあったが、もう1度だけ、今度は自分の好きな「花」という領域でやってみたいと思い入社を決めた。フローリストとしての経験不足は、花を触る現場業務とPC作業の両輪という形で補うことにした。
お世話になった店舗の花屋を辞めるときは、たった1年弱にも関わらず送別会を開いてもらい花束と色紙をもらう。その色紙には、一緒に働いたみんなだけでなく、面接をしてくれた当時のエリアマネージャーからのメッセージもあった。
自分の花の道がはじまった場所。ここの店舗で働けて、心優しいスタッフやお客さんたちに囲まれて、本当によかった。感謝の気持ちを胸に、店舗での勤務を終える。
この頃から「花と関わることを続けていきたい」という意志が強くなる。それと同時に、漠然とした不安に押しつぶされる、ということも少なくなってきていることに気づく。人と会うことへの抵抗も減り、むしろ誘いには前向きに乗れることが増えた。
依然として動き回るほどのエネルギーはなく、何もせずグダる時間は必要だったが、感情的な波は落ち着いてきていた。
だれかと会う時にタイミングが合えば、キレイなのに余って廃棄になってしまう花を包み、押し付けるように渡した。周りにはそれを喜んで受け取ってくれる人ばかりで、そのおかげもあり、花の仕事への意欲は高いままだ。
2023年:夏のニュージーランド旅行
花屋という仕事を始めて約1年半。「花や植物と関わることを続けていこう」と想いが固まったのは、8月に訪れたニュージーランドから帰国し、東京の暮らしに戻って数日経った頃。
大自然の壮大な景観は言うまでもないが、特に心に残ったのは、その土地で自然とうまく調和し、景色に溶け込むように暮らしている人々の姿。人口の5倍いる羊も広い牧場も、それに向き合って生きている人がいる。山や湖を観光資源とし、それを続けるために自然との調和を図っている人がいる。
広い空と雄大な山々、地平線まで見渡せる大地、青く澄んだ湖、風に揺れる枝葉。季節が巡れば、さまざまな動物や虫も出てきて、みんな一緒になって自然の中を生きるんだろうな。
「自然の循環を感じながら、生きていきたい」
具体的な形はなにも浮かばないけれど、そんな想いが湧き上がってきた。
そしてこの旅で「人との関わり」が自分に与えている影響の大きさも、改めて実感する。特に、心の距離が近い友達の存在は大きい。ここ数年はどこかに行ってもだいたいひとりで、気の置けない友達と海外なんて久々だった。結果、どの瞬間を切り取っても楽しい思い出ばかりになった。
帰国して約2ヶ月が経った、2023年10月。花と植物のECスタートアップを退職することを決める。そしてその旨を伝えた。
これまではアルバイトとして働いていたが、フルコミットで一緒に事業を伸ばしていかないか、と言ってもらったことをきっかけに自分の中で考え、周りの先輩方にも相談し、最終的には自分で結論を出した。
代表である先輩は入社前も、入ってからも、自分の精神的な状態をすごく気にかけてくれていた。他の社員さんや職場の先輩も優しくて温かい人ばかり。新しい経験や挑戦の機会も与えてくれた。離れるのはもったいないと言われたが、自分でもそう思う。
それでも喉に刺さった小骨のように、ニュージーランドで沸き起こった感情が、自然の循環の中で生きていきたいという想いが、拭いきれない。
自然に近い場所で、花を通じて、そこにある人や自然と関わっていく。そしてその生活は、大きな循環を実感できるものでありたい。
その未来を目標においた上でサービス拡大に向き合う選択もあるが、どうしても気持ちが続いてこなかった。事業や企業が大きくなってこそ叶えられることは多いけれど、自分自身の感情が向く方に進むことを選んだ。
その背景には、首都圏に住み続けることへの限界もある。人やビルの数、空の広さ、夜の静けさ、深呼吸したときの空気。良さもあるが、生活環境としての苦手意識が強くなりすぎていた。
そうして、辞めたあとどうしたいのか、何をしていくのかの具体的な計画は何もない状態での退職を受け入れてもらい、2024年1月をもって退職。
2月1日、とりあえず何か花の仕事をどこか自然に近いところでやろう、という想いだけを持った無職となる。何をもどこかも、何も決まっていない。
地球の一員としての自分
そんなこんなを経て気づけば、不安に頭が支配されることも、胸が苦しくなることも、涙が突然あふれ出てくることもなくなっていた。そして3年前には見向きもしていなかった、花屋という仕事をしている。
ここまで回復できたのは、家族や友達だけでなく、職場やこれまでに出会った人のおかげだと思っている。もちろん人だけでなく、日々の中や旅先で出会った景色、食べ物、植物、花、匂い、音。
自分という個体以外の「他」との関わりによって、いまの自分はある。
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言葉にできたのはこれを書いているときだが、ふわっとした方向性はあったように思う。長野に移住が決まる前、どこで何をするにしても、こういう方向でいきたいなと考えていた。
「地球の一員として、自然の循環を感じながら、その中で生きていく」
花屋のアルバイトを始めた当初から今も変わらず、ずっと嫌なことがある。それは、余った花をゴミとして扱うこと。
店舗でもECでも、商品として使えないと判断された花は基本的に廃棄になる。特に店舗ではお店に花が並んでいないとお客さんも来ない。だから常に在庫を持ち、次の仕入れが来たら残っている分は廃棄する。それだけでなく、花を商品に加工するときも下の方についている葉や茎は落とし、ゴミとなる。
当時の店舗の先輩には「1、2年したら慣れて何も思わなくなるよ」と言われたが、花と関わる時間が長くなるほど、嫌だという気持ちは強くなった。
ロスになった花は持てる分だけ持って帰り、部屋のスペースが許す限りドライフラワーにしたり、束ねて誰かに渡したりもしたが、結局最後はゴミになってしまうよなぁと思っていた。
ヒトは植物を食べて生きている。牛も豚も、植物を食べて生きている。植物は太陽の光を浴び、海から巡ってきた雨水と土から栄養をつくり生きている。土の中にもさまざまな生き物がいて、落ち葉や動物の糞を分解している。
今日食べたお米も肉も、飾っている花も、部屋をいい感じに見せてくれる植物も、そして自分も。この循環の中にいる。
スーパーやネットで簡単に手に入るものは、地球に生きるものを人のために加工する人がいるからだ。ニュージーランドで見た人々も、その中の一人。
花屋に並ぶ花たちも同じく、天候やほかの生き物たちと関わりながら、人に届ける花をつくる人たちがいる。では、人の手元に届いた花は、その後どうなっているんだろう。きっとなにかで循環しているんだろうけど、正直よくわからない。
人の手に渡ったあとも巡り巡って自然に還っていく循環が実感できれば、もっと晴れやかな気持ちで花と接することができるのかなぁ、と思う。
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長野に住むきっかけをくれたのは、一人の友人だ。
3年前に仕事を辞めた後はほとんど人と会わなかったが、一緒にいても気を遣わず、ほどよい距離感でいてくれる友達とはたまに会っていた。そのうちの一人も同じくらいのタイミングで仕事を辞めていた。
2泊3日のキャンプに行き、日中はお互い好きな本を読み、それぞれ好きなタイミングで好きなことをして、会話はほぼない。日が暮れて本が読めなくなると夕飯を一緒に食べ、あとは勝手に寝て、起きる。
そのペースが心地良くて、無職をいいことに平日の人が少ないときを狙ってよく行った。不安が襲ってきて寝れない夜もあったが、家にいるよりもずいぶん楽に感じる。
秋になる頃、その友人は長野に移住することになり引っ越していった。それでも時間を見つけては長野に行き、自然の中で過ごす。個人的にもその土地や人が気に入っていた。
時が経ち、その友人は再び無職になった自分に「長野おいでよ」と、手頃な物件を紹介してくれる。長野には雄大な山があり、美しい湖がある。ニュージーランドに近いものを感じ、これも縁だなと思う。
最後の後押しは、これまた別の友達だ。「東京と長野で2拠点をやりたいから、家主として住んでよ」と。二つ返事で了承し、その数週間後には内見を済ませ部屋を決め、ふたりの友人と自分の三人で長野に拠点をつくることになった。
3月、仕事はどうしようかなと思っていると「就職先も見つけたよ!」と長野の友人から連絡がきた。畑で自分たちの花を育てている花屋で、まさに求めていたような場所だった。まずは母の日に向けての手伝いということで、仕事も決まった。
これまでもたくさんの人に助けられてきたけれど、関わってくれている人たちには、本当に感謝が尽きない。いまの自分はこんなふうに、手を差し伸べてくれて、与えてくれた人たちのおかげで存在している。
長野でやりたいこと
まずはここまで(全部読んだ人いるか不明ですが)お付き合いいただき、ありがとうございます。
そういう訳で、4月から長野県茅野市に住んでいます。本当は3月中に公開したかったのですが無理でした。母の日が終わってから続きを書いています。
「長野でやりたいこと」と言っても、まだうまく言葉にはできていないし、具体的なプランはありません。ただ、人も花も地球の循環の中にいることを実感できるような、そんなことをやりたいなぁと思っています。地球の一員として、人として、自然の循環の中に溶け込んでいきたい。
それを何かの形で、お世話になった人やなっている人、地元の人、茅野市という地域にも還元できるように頭を使っていこうと思っています。
とはいえ相も変わらず、縁やタイミング、自分の感情に身を任せて、流されるままに流れているけれど。
引っ越してきて1ヶ月が経ちましたが、もうすでに来て良かったなと思えることがたくさんあります。その1つが、花をゴミとして扱わないこと。母の日で出た大量の廃棄分は、自社の畑に撒いて、これから新たに花を育てる肥やしになります。
「こういうの、めちゃくちゃいい〜〜〜!!!」とニコニコで畑に撒いていました。笑
蓼科高原の麓にある畑では、高原特有の気温差のある気候と霧ヶ峰の伏流水で、花やいちご、トマトなんかを育てています。これからはその畑仕事(主に花)もしていく予定です。
今回の長野移住は僕の中では大きな出来事で、引越し前に部屋の掃除をしながらそれを改めて思いました。カーテンを開けて窓から風を入れた時に、「そういえばカーテンを全開にしたの、いつぶりだろうな」と。驚くことにカーテンを開けて光を取り入れる行為を、ほとんどしていなかったんですね。
そして一時は本当に常にいたベッドも、ある意味では思い出深い。インターン時代から花屋に至るまで、ここで寝起きしてきたんだな。いろいろな変化があったけれど、ひとまず、どうにか生きてこれました。
これから先も、不意に岐路が訪れるんだろうなと思います。良いことだけでなく困難も。事故にあったり病気になったり、大切な人と会えなくなったり。そういうこともぜんぶ引っくるめて、時には立ち止まりながら、少しずつでも前に進んでいけるような人でいたい。
ひとりでは生きていけないので、良かったら、これからも関わり合いながら一緒に生きてもらえたら嬉しいです。
そしてこれまでに関わってくれた方々にも自分なりの形で感謝を返していけるように、できることを増やしていきます。その道中を楽しむ心を忘れずに。
花は生きる上で必要なものではないかもしれないけれど、僕にとっては、花が友達や先輩、お客さん。言うならば「人」の社会と自分をつなげてくれて、そのおかげで生きてこれました。そして、「自然」に対する見方を改めさせてくれました。
「花を通じて人と自然をつなぎ、地球の循環に生きる」をいったんのテーマにして、自分の道を一歩ずつ進んでいこうと思います。
長野県茅野市は、八ヶ岳の山々と美しい湖が近くて、高原産の野菜や水がおいしいとってもステキな街です。ぜひ遊びにきてください!!おわり👋
番外編
はじめてウィッシュリストなるものを作ってみました。基本的には「これがあったら生活がもっと気持ち良くなるもの」で、生活が落ち着いてきたら自分で買い足すなりしていくだろうと思っています。
とはいえ今すぐが難しそうなので、せっかくならとリストにしてみました。
中身のコンセプトはぐちゃぐちゃなのですが、気が向いて送ってもらえたものは、長く大切に使おうと思っています。
あとは部屋の棚や作業机は、廃材をDIYしてつくるつもりなので、そういうのも一緒にできる人がいればうれしいです!!以上です!🤲
ここまで読んでくださりありがとうございます!ただの日記ですが、温かい目で見守っていてください〜〜