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9月24日のマザコン18 自殺について思うこと

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本題から少し逸れるけど、いくらかは本題とも関わりがあるような無いような、しかし常々私が思っていることを、今回1回分を借りてちょっと書きたい。
というのは、私はいつも本ではふざけた文章ばかり書いているので(ふざけて書いているのではなく、ふざけたことを一生懸命書いているのだ)、なので、「たまには真面目なことを書いてみたいなあ」と思っても、そういう場がないのだ。だって私が真面目な本を書いても企画が通らないから……。
そこで、この連載は「30年に1度」と言われる、私・さくら剛が真面目な文章を書く場なので、せっかくなので便乗して私の思っていることを書いてみる。

常々私がなにを思っているかというと、「『自殺は絶対にしてはいけない』という考え方はとても薄っぺらい」ということだ。
世の中には一定程度、「自殺は罪であり、なにがあっても許されない」と考える人がいる。宗教の教義で禁じられている場合もあろうが、実質大多数が無宗教である日本人でも、学校で教えられたからかテレビで誰かが言っていたからか、自殺はとにかく悪いことだと信じて疑わない人は多いと思う。
芸能人や有名人が自殺をした時の反応などを見ていると、その傾向は一目瞭然だ。そもそも、ニュースや記事では亡くなった方の友人(の芸能人など)が、「あいつは大バカ野郎だ!」とか「1人で逝くなんて許せねえ、殴ってやりたい!」とか「なんで俺に相談しなかったんだよ!」とか、友人自ら死者に鞭打つコメントを出している。
さらに一般人の感想となると、そこに「自殺なんて迷惑なことするな!」とか「残された家族がどれだけ悲しむかわからないのか!」とか「自殺は自分を殺すんだから、殺人と同じだぞ!」とかいう、定番の文句が加わる。

具体的な例では、女優の清水由貴子さんが霊園で硫化水素自殺をした時、芸能界の師匠格だったH本K一さん(通称Kちゃん)は、「ユッコちゃんは“いい子”にくたびれたのかな。だけど、最後はちょっと悪い子だったな。もうちょっと頑張ってほしかった」とコメント、また親交の深かった俳優K西H之さんは、「自殺で死ぬなんて、僕は一生ユッコを許さない。天国なんかに絶対に行かせない。冥福も祈らない。僕が引き戻してやるから」と、述べたそうだ。ウィキペディアの引用なので、万が一内容が正しくなかった場合を考慮して名前はイニシャルとした。
他には、これはweb上の記事から、テレビ朝日のワイドショー「モーニングショー」で自殺のニュースが取り上げられた時(誰が亡くなった時の記事かは忘れました)、コメンテーターのテレビ朝日局員TM川さんは、「自殺はダメなんです。どんなことがあっても自殺は絶対にしてはいけないんです!」と仰ったそうだ。

H本さんもK西さんもTM川さんも、自殺した人のことを、すごく責めている。心でなにを思っていようと、言葉では紛れもなく自殺者を責めている。

私は、この感覚がわからないのである。
死ぬほど辛いことがあって、文字通り「死んだ方がマシ」という生き地獄にはまり込んで、そこから抜け出すため最後の手段として死を選んだ人に、どうして「悪い子」「許さない」「冥福も祈らない」みたいな故人を責める言葉を吐けるのか?

誰だって、死ぬのはイヤだろう。
というか、死ぬよりイヤなことなんて、世の中そうそうない。大抵の人にとっては、この世で1番イヤなことが死ぬことだろう。怪我とか失恋とか失業とか、痛いことや苦しいことがあっても、あらゆるイヤなことは「死ぬよりはマシ」ではないだろうか? それほど、人は死ぬのがイヤなはずだ。
ところが、自殺をした人というのは、死ぬ直前まで、その誰もがダントツで絶対にイヤな「死ぬこと」を選ぶ方がまだマシだと思うほどの、壮絶な苦悶の日々を生きていたのだ。自殺した多くの人は、もう生きることすら諦めていいと思うほどの、絶望的で一切救われる望みのない、あと1日生きることも耐えられない地獄の中でもがき苦しんでいたのだ。

その人たちだって、最後の手段を避けるために限界まで生き延びる方法を探したはずだ。9月24日以降の私のように。
私はたまたま、良いお医者さんにかかっていたり自分が体力的に元気だったり、運転免許を持っていたり情報をくれる人がたくさんいたり親がちゃんと貯金をしていたり職業柄自分の意見や要望を物怖じせずに喋れるスキルがついていたり、手遅れになる前に親から連絡が来たり、そういう偶然が重なって、まだ生き延びられている。
しかし、仮にうちのような状況に陥って、たまたま上のすべてがなかったら……あちこち相談に行ってもうまく喋れず丸め込まれ助けが得られない、貯金がないので入院もさせられない、自分も持病であまり動けない、車が運転できない、トラブルを知った時点でもう対処不能だった………というような不運が重なる状況だったら、もう死ぬしかない。親を見捨てる覚悟がなければ、殺すかもしくは一緒に死ぬかだ。
「そんなことで死ぬなんて……」と言う人は、一度こうなってみればいい。
奈落に落ちた人間が助けを求めて伸ばした手をすべての相手に弾かれたら、掴める最後の救いは「死」だけなのだ。

そうして遂に自ら命を絶った人、しかも友人に対して、「もうちょっと頑張って欲しかった」「悪い子」「許さない」「冥福も祈らない」ということを、どういう神経をしていたら言えるのか。
おそらくそういうことを言える人というのは、自分が運良くそれまでの人生で、本当の絶望を経験しなくて済んだ人だろう。「死んだ方がマシ」と本気で思うような辛い経験を味わったことがないから、他人の苦しみを想像できないのだ。そういう人は、自分がちょっといいことを言いたいがために、死ぬほど辛くて本当に死んでしまった物言えぬ友人を足蹴にするようなことを平気で言えるのだ。

「どんなことがあっても自殺は絶対にしてはいけないんです!」と言っていたモーニングショーのTM川さんも、きっと苦しみや深みのない、平坦な人生を送られてきたのだと思う。人生経験が浅いと、死ぬほどの苦しみや、自殺が唯一の救いの手段であるという状況を、頭に描けないのだ。
やや話が逸れるが、そんなふうに自殺を完全否定するTM川さんが、出演している番組でコロナウィルスの恐怖を煽りに煽り、感染者差別を助長し日本の経済を破壊し何十万という失業者を生み、若者を大量自殺させる手助けをしているのはなかなか興味深いことである。
自殺を否定しながら自殺者を増やすような言動に及べるのは一見矛盾しているようではあるが、人が自殺に至る心情や状況を想像できないから、そこまで無責任な態度に至れるのだ。TM川さんは昨年の夏から日本人の自殺が激増していることに対しては、「自殺の増加はコロナ対策が原因かどうかなんて、わからないじゃないか!」と言っていた。この状況下でそれを言ってしまえるということが、まさに彼は自殺についてなんの想像力も働かせられない人だということを現していると私は思う。

何年か前に、私はどこかのお弁当屋さんのTwitterアカウントと、論争をしたことがある。
その弁当屋さんは、「自殺したいとか思っている人は、とりあえず10万円持って北海道に旅行に行くといい。北海道の広い大地と自然の中でしばらく過ごせば、死ぬのもバカバカしくなるから」ということを書いていた。
これは典型的な、「良いことを言いたいだけ」で悲しいほど想像力に欠ける、苦しむ人の気持ちがなにもわかっていない書き込みである。
「10万円を持ってしばらく北海道旅行に行きリラックスする」ということが可能な状況にいるような人間は、そもそも自殺しようなどと思わない。
それはここまで私の日記を読んでくれた人なら理解してくれるだろう。「旅行に行って気分転換」みたいなものは悩みの入口で取れる手段であり、本当に生きるか死ぬかの渦中にいる人間にとってはそんな手段は実効性のカケラもない。次元が違うのだ。自殺を考える人間は、「10万円を失ったら死ぬ」とか「自分が旅行に行ったら数日以内に家族が死ぬ」という状態なんだよ。
そういう場面を想像する力がないから、「旅行に行けば死ぬ気はなくなるよ」なんていう、バカげた発言ができるのだ。
それは無意味を通り越して、害悪だ。本当に死を考えるほど悩んでいる人は、そんな無責任なアドバイスを見れば「世界は自分をなにも理解してくれないのだ」「自分の苦しみをわかってくれる人はどこにもいないのだ」と、孤立感をますます募らせる。想像力のないアドバイスは、苦しんでいる人を助けない。余計に苦しめるのだ。

私もSNSでかけてもらった言葉で、よかれと思って言ってくれているのだが、励まされるどころか逆効果になったものがあった。
それは、「辛いのはあなただけではないですよ」「同じように苦しんでいる人はたくさんいますよ」系、それから「苦しい時は必ず過ぎます」「辛いのは今だけですよ」の系統のアドバイスだ。
私が読んだ介護エッセイに、「『介護で苦しんでるのはあなただけじゃないですよ』と言われるのがイヤでたまらなかった」と書かれていた。
私もまったく同じ思いだ。そんな言葉で、こっちは希望を持てないのだ。
転んで膝を擦りむいたくらいの悩みなら「痛いのは自分だけじゃないから元気出そう」と思えるだろうが、これほどの、今日寝たらもう二度と目覚めたくないと思うほど辛い状況にいる時に、どこかに同じような境遇の人がいるかどうかなんて、どうでもいい。
例えば娘が通り魔に殺されてしまったという人に、「通り魔に殺された人なんてたくさんいるんですから、くよくよしないでください」と声をかけて親御さんは励まされるだろうか?
私のために声をかけてくれた人に対して大変申し訳ないけど、苦しいのはあなただけじゃないですとか、そのうち必ず終わりますよとか、言われても「あなたがうちのなにを知っているの?」と思ってしまう。この苦しみが終わるという、保証はどこにあるんですか?

Twitterの議論は円満に終わることは絶対になく、弁当屋さんと私の争いもウヤムヤと物別れに終わったのだが、ともかく私は「自殺したいような悩みなんて旅行すれば消えるよ」みたいな、脳天気で、苦しんでいる人のことを気にかけているようで実際はなにも気持ちに寄り添っていない………自殺を利用して「僕って良いことを言うでしょう」とアピールしたいだけの、軽々しい発言がとても腹立たしかったのだ。

清水由貴子さんに対する、H本K一さんやK西H之さんのコメントも、それと似たような空気があると思う。
清水さんの妹さんが書いた、清水さんが自殺に至るまでを記録した手記がある。
それによると、清水由貴子さんは要介護5のお母さんの面倒を自宅でみるため、女優の仕事も辞めて大変な介護の日々を送っていたそうだ。
私は地獄の入口に片足入った経験があるので、少し、自殺をする人の、自殺に至る気持ちがわかる。
私は、自殺を選んだ人を絶対に責められない。私だけでなく、自分がその近くまで行った経験がある人は、誰も自殺した人を責めるような発言はしないと思う。
少なくとも私は、自殺の報道や話を聞くと、「えらいな、よくがんばったな」と心の中で思う。死ぬほど苦しい人生を死ぬ日まで耐えていたことにも、「自分で自分を殺す」という想像を絶する困難な行為を実行したことにも、私は拍手を送りたい。
清水由貴子さんに「もうちょっと頑張ってほしかった」と言ったH本さんは、それまで清水さんがどれだけ頑張って来たかを知っているのだろうか? もうちょっと頑張れるように手を差し伸べてあげたのだろうか? 「僕は一生ユッコを許さない」と言ったK西さんは、清水さんがどれほど壮絶な日々を送りどれほど壮絶な覚悟で死を選んだか、真剣に想像してみたのだろうか? 自殺を回避できるように、友人として手を差し伸べてあげたのだろうか? 死ぬほど苦しんでいる友人に。

自殺をする人というのは、だいたい半分以上は「抑うつ状態」で死を選ぶそうだ。
抑うつ状態……、うつ病など精神の病気にかかっている、もしくは普段病気でなくとも少なくともその瞬間は発症しているという状態。要するに、ストレスや悩みや苦しみが限界を突破して「ひどい病気の状態」になり、それで死んで行くのである。
それはある意味「病気で死ぬ」ということではないだろうか?
精神ではなく、身体的な病気や怪我で末期の状態になり、もう助かる見込みもない、体は衰弱して痛みに襲われて苦しくてたまらない、もう殺してくれと、懇願している人に対して「死ぬなんて悪い子だね」「死ぬなんてダメ、一生許さない」と責める友人や家族はいないと思う。むしろ、「早く楽にしてあげたい」と思うのが人情ではないだろうか? ずっと病気で苦しんでいた人が実際に亡くなったら、「やっと楽になれたね」と言葉をかけてあげるのではないだろうか?

体の病気ではそうなのに、精神の重病・精神の危篤状態で亡くなる自殺の場合は、なぜ死ぬことをそんなに責められなければいけないのだろう。
「自殺は他の人に迷惑だ」「死んだら家族が悲しむ」という理論はよく見るが、そもそも人に一定の迷惑をかけずに死ぬ人などいない。部屋で病気で孤独死する人も、部屋で自殺をする人も、迷惑をかける度合いは同じではないか? 理性が残っているなら、なるべく迷惑量が少ない方法を選べばいいのだし、思い切って言ってしまうと、長く生きて思考が正常でなくなり介護が必要になってもなお生きている方が、遙かに他人に迷惑をかけるのではないか。迷惑どころか家族の人生を破壊することもあるのだ。
そして、「死んだら家族が悲しむ」とは、他人が軽々に言えるものではない。家族の形や関係はそれぞれの家族で違う。
仮にとても仲の良い家族だったとしても、むしろ仲が良いならなおさら、家族の誰かが「死んだ方がマシだ」と思うほど地獄の状況にいるのなら、「早く楽になって欲しい」と思うのではないか? もちろん救いの手を差し伸べて生きたまま苦しみを除いてあげられるならそれが1番いいだろう。しかしそれができない時に、「自分が悲しむのがイヤだから、あなたは死ぬより辛い地獄の毎日でも私を悲しませないために生きていてください」とは、家族なら言わないのではないか? そんな残酷なことを言えるのなら家族ではない。
「自殺は自分を殺すんだから、殺人と同じだ」という理屈は、もはやただの言いがかりだ。自分と他人は違う。料理をしていて包丁で手を切っても、傷害罪で逮捕されることはないだろう。自分は他人ではないのだから。自殺者が「自分を殺した」ために殺人罪で警察に捕まることもないだろう。当たり前だ。自殺と殺人は同じではないのだから。

私は、人は自分の人生を自分で終わらせる権利があると思う。
だって自分の人生なのだから。
私は本を書くが、どこで本を終わらせるかを決めるのは著者だ。物語は終わるのにふさわしいところで終わらせてこそ、人の記憶に残る作品となるのだ。書くこともないのにだらだら続けていたら、駄作になる。「もっと早く終わっていればよかったのに」と思うストーリー、ドラマや映画やマンガ、誰しもひとつやふたつ心当たりがあるのではないだろうか?
自分の人生は自分の作る物語なのだから、自分が終わりを決められるべきだ。むしろそれが正しい終わり方なのではないか。

私は、できることなら、自分が老いてモラルや理性を失い、家族や社会に迷惑をかけるようになる前に死にたい。
その時に安楽死が可能になっていればそれを選ぶが、残念ながら日本は「どんな命であろうが命はなによりも重い」「命以外はなにを犠牲にしても命だけは守らなければならない」という異様な生命至上主義に支配されているので、それは望めそうにない。
私は物語を作る職業であり、物語は適切に終わらせるのが1番良いということは身に染みて理解しているのに、自分で死ぬ勇気がまだないし今後もしばらくは持てそうにないことを、悔しく思っている。


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