とりあえず、また明日も生きてみよ

いつかのメモより「俺とお前とリヴァイアサン」(たぶんいつも通り塾でバイトをしていて、その時呼んだ国語の論説文に対して思うところがあって書いたメモだったと思う)


自分の身の回りの環境は、時間こそかかるが、変えることができる。そして、環境というものは大概自分という存在に依存している。著者はこう言う。つまり、自分を活かしきれない、良くない環境というものはそもそも自分発信で生まれいづるものだということだ。なるほど素晴らしい。環境のせいにして腐っている人々に説いてまわりたい。

自分は、変える努力をするべき環境に置かれたことがない。よって、これまでに体験してきたいくつかの不合理や失敗も、環境のせいにしたことはない。良い家族、良い友人、良い教師(大体は、の話)。裕福ではないが相対的貧困層とまではいかないし、運良く奨学金も貰えて志した進路に進め、学びたいことを学びたいように学んでいる日々。奇跡としか言いようがない。総合的に考えて環境偏差値ざっと60はいくと思う。自分以外の人間たちの生活の何を知ってるんだ、と怒られそうだが…。

そんな私が、なにかどうしようもない出生上の環境の悩みとか、金銭面とか、それこそ人間関係などで悩んでいる人に対して「環境は変わる」、「環境は自分のせい」なんて言うことが、果たして許されるのだろうか。鬼ではなかろうか。

人は、人の悩みを聞くことはできても、成り代わって体験することは絶対にできない。つまり、どれだけやるせないか、つらいか、絶望的かなんて、他人には永遠にわからない。本質を掴めていないものに、生ぬるい解決策を与えよう、などという傲慢かつ高飛車な態度は私にはとれないと思った。

百歩譲って環境を変えられるとしても、変わるまでに時間がかかる。いつまでも待てということ? いつまでも待って、それでももし変わらなくて、そのあと死ぬのと今死ぬのとではどっちの方がその人にとって幸せなの?

かつて、菊池寛の「身投げ救助業」を共通して読んだ友人との会話の中で、生命至上主義について非常に懐疑的になった瞬間がある。生きてればいいことある。そんな温い考えが本気でできるのは、そしてそんな根拠ないことを人に言えてしまうのはほんの一部の、恵まれた人間だけだと感じてしまった。生きていることがそんなにいいことか? 自殺を肯定する訳では無い。生きていることと、死ぬこと。人はみんな生きてるから、死を本能的に避ける。我々との対極に自然と位置し続けるもの。それが死である以上、私たち人間は、動物は、生物は、これからも、生きる、を肯定し続けるしかないのだろうか。

筆者を批判したいわけではない。例えばこの環境、が政治や景気、に変わればまだ話はわかる。言ってしまえばホッブズのリヴァイアサンのようなもので(社会契約の話ではないけども)、結局政治や景気を作り出すのは我々。変えられるのも我々。現状に文句を言っても仕方なく、好転に向かうよう、未来を見据えて行動すべきということだ。それが個人の話になると… とたんに卑屈になって、こんな文章を書いてしまう。とにかく私に言えることは、すべての人類に幸あられ。

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