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完璧パーペキ印象操作

思い返せば、見た目のお陰で得をしてきた人生である。美人だから何でも手伝って貰えるとかチヤホヤされてきたとかそういう意味では一切ない。私は幼少期から性格が大人しく、そして見た目も真面目そうで、先生の話は何でも聞き漏らしなく理解してます、という表情を作るのも得意だった。というか、普通に生きていればそんな顔になった。だから授業中あたふた要員で急に先生にあてられるといったようなことも無かったし(今考えるとほんまにおもんない内輪ノリ)、基本的に大人から信頼される子供だったから多少のズルもバレることがなく、生活していて楽だった。この歳になっても、というかこの歳になったからかもしれないが、私が話すことは妙に説得力があり、それが仮に真っ赤な嘘であったとしても、何だか信じてしまいそうになる… みたいなことを言われることが度々ある。話し方に多少気を配っていることも要因のひとつだとは思うが、やはり、疑われたらどうしようではなくて、疑われないためのパーソナリティを作り上げること。これが重要なのである。

しかし時にはそんな振る舞いが裏目に出ることもあった。話を聞いている顔をして全く聞いていないことが多かったから、周りは完璧に理解しているなんらかの隊形移動とか(運動系の行事とかで、クラスごとにばーっと走って移動するやつ。懐かしい)その日限りの決まり事などに理解が追いついておらず、赤っ恥をかくこともしばしばだった。だが私のような極度に大人しい生徒の失敗をいじっても楽しくないから、誰も何も言わない。だから私の失敗は完全になかったことにされ、皆すぐ忘れる。そしてまた私のほぼ優等生生活は続く。

目ざとい教員から聞いてるみたいな顔してたまに全然聞いてない時あるよねと言われた時はどきりとした。しかしそれで別に何が変わるでもなかった。その教員は私のような面白みもない生徒にも分け隔てなく接してくれる人で、時にからくも優しくて、未だに尊敬している恩師である。と言いつつも、少なくとも中学生までは、いい教員としか出会ったことがない。高校生にもなると生徒数が増え、教員との繋がりが薄れてしまったけれども、それでも私は教師という存在は基本的には好きだ。これについては運が良かったとしか言いようがない。子供というのは未来そのものだ。ごつごつした奴もいればつるつるした奴もいる。そんな魑魅魍魎たちの前で教鞭を取り、しつけ、相談に乗り、進路を共に考え、送り出す。それも出来るだけ平等に。教師とは国家の鍵そのものである。そんな彼らにそこそこの金しか渡さない国家に、私はむしろキレている。給料をもっと上げて欲しいと切に願う。勤務時間の問題やその他不必要な心労なども、取り除いてあげたい。出来そうにないのがつらい。

ほぼ優等生生活を送る中での弊害と言えば、教員にあまり構って貰えない、だろうか。先述した通り私は出来ていなくても出来ているような顔をして佇んでしまうから、教員は基本私をスルーする。普段いい加減だからと執拗に構われるのも、それはそれで鬱陶しいものと容易に想像出来る。しかしながら私のような性分では、あの子は大丈夫だろうと何でもかんでもスルーされてしまい、それを時に寂しいと思う時もあった。

第一印象が良いことは、短期的に見ると得だが長期的に見ると損をする。そんな話を聞いた時なるほどと思った。例えば極端な話第一印象が100点満点中100点であったなら、後は下がるしかない。しかし例えばそいつの見た目がめちゃくちゃ不良で素行も悪そうなら? 20点くらいだろうか。そして、第一印象100点人間と20点人間が、同じように「真面目に」学校生活を送っていたらどう思うか。前者は特にギャップもなくまあ普通だな、いかにも、で終わるけれども、後者は違う。あんな見た目なのにちゃんと授業受けてる、とか課題出してる、見直した、すごい、なんて感想も出かねない。全くふざけた話である。前者と後者が同じようにジュースの缶を道端に捨てたらどうか。前者の好感度はみるみる下がるが、後者はあまり下がらないのではないか。同じ行動ひとつとっても、第一印象が良い方が明らかに損を被っている。営業まわりなどを生業としており、短時間勝負の人間はもちろん第一印象に気を付けた方がいい。しかし長い付き合いになるなと判断される場合に限り、ハードルを予め下げるというのは非常に使える印象操作のひとつであると思う。

私はかつて、大学のオンタイム授業でのアイデアの発表の際に、班の代表に選ばれたことがある。6、7人ほどの班で、年齢、学部も入り乱れていた。各班の中でまずは全員発表し、その中で一番優れていると班のメンバーに支持された者一名が、クラス全体での発表を班代表として披露する。班のメンバーへの発表の時、私は好奇心から、ヒトラーの演説のやり方の真似をした。ちょうどハマっていたのだ。あまり詳しいわけじゃないし、彼は人を魅了する周波数の声の持ち主だったから、本物の凄さには到底及んではいなかっただろう。真似たポイントとしては、初めはボソボソ、しかし強調したいところや後半にかけてはしっかり声を張る。主張したいところをわかりやすく、キャッチーに、そして何回も繰り返す。緩急をつけることも忘れなかったし、表情を見せられない分、声色を変えることも心がけた。するといとも簡単に班代表に選ばれた。単に私が書いた台本の内容(これからの教育に必要なものは何かみたいなお題だった)が素晴らしかったからと言うのなら、それはそれで納得する。もちろんそういった意見を寄せてくれる方もいた。しかしながら意見として多かったのは、「説得力がある」「わかりやすくてスッと入ってきた」など。多かったと言うのだから、このような意見をくれたのは、ひとりやふたりではなかったということだ。話し方が良かったと言われた時は嬉しかったが、今となっては、失敗だったかなと思う。話し方に注目された時点で、おそらくこの戦法は終わる。何の影響も及ぼしていませんよというくらいにナチュラルに話さないといけないのだ。

印象操作というものは、パーソナリティレベルで作り上げることももちろん出来るし、このように話し方をすこし工夫するだけでも、大きな効果を及ぼすことがわかった。話し方とか説得力だけで選んでたら、ヒトラーみたいな人がまた出てきたら皆騙されますよ。笑い混じりに班員に言ったら、皆笑っていた。冗談ではないのに。ヒトラー演説の効果についての収穫の大きさと、班代表に選ばれた嬉しさで、つい口が滑って言ってしまったのだ。今では、あえて言うことでもなかったかな、とぼんやり思う。

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