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さよなら24世紀前の賢者、こんにちは歌下手アイドル

歌番組を観ていると、母親が、このアイドル歌下手だから好きではない、と言う。

正直反応に困る。そんなこと言わんでもええやん、が本音。歌番組くらい気持ちよく観させてくれ。

私は特に「アイドル」を好きな訳では無い。
しかしながら、なんとなく、アイドルはそこ以外にも魅力あるから、とフォローする。

アイドルの真骨頂はそこではない。
やはり顔、そしてスタイル。揃った足並み、トレンドを作り出す踊り。
私はそれらをもってしてアイドルをアイドルと判断している傾向が強いなと思った。

つまり私の中でのアイドルのイデア像は、限りなくこれらの条件を揃えているものなのだ。

…いや待てよ? 私の中の、ってなんだ。
例えば「三角形のイデア」とは、皆が皆それを見て「三角形」だと思う、究極の共通認識ではなかったか。

イデアは、私個人が勝手に作り出して良いものではないのだ。

しかしながら、私含め人々は往々にして自分の中の基準でものごとを見つめ、判断する。いいように言えば相対的、悪くいえば自分勝手。
つまりうちの母親のアイドルのイデアには、歌上手い、も含まれているのだろう。だから歌下手アイドルに厳しい。

でもまたまた待てよ? 歌上手いの条件がアイドルと判断する基準なら、母親の中で「歌下手アイドル」なんて存在してはいけない。なぜなら歌下手な時点でそいつらは母親の中でアイドルではない。

その矛盾の解き方は実は簡単。
そのグループがアイドル、を名乗っているからだ。
果物同士でもりんごがバナナを自称するのは不可能に近いのに、人間は何を名乗るのも基本自由なのではないかな? 例外はもちろんあると思うけど。

個人のイデアにも勝る、それがカテゴライズかぁ。それっぽいことを言ってみる。

ま、そのカテゴライズが生きてるうちは、その分類を肯定する人が多いってことやもんね。そこを否定はせんけど。というかできない…。

(カテゴライズ、は別に、特別な用語として使っているわけではなくて、普通に分類するという意味の方。ちなみに最近よく感情のピクセルを聴くので、カテゴライズと聞くと、私はこの曲を思い出す。岡崎体育は3曲しか知らないけど、めちゃくちゃいい)

しかしこの「個人の中に後天的にイデアは作られる」
みたいな、フワッとした自己満理論、個人的には結構好き。荒は多くても、自分なりの哲学と言うのはおこがましいが… それに似たようなものを生み出せている。矛盾や無知の露呈を怖がっていては、哲倫学生なんてやっていられない!

大陸合理論ニキネキたちには勢いつけて殴られそうな理論やけども。

(実の所、未だ大陸合理論者ってごく普通に大勢実在していると思っていたので、カントの批判哲学で一旦黙ったことをコトバンクで知った時はびっくりして、そしてちょっと残念だった。理解はしても共感はしかねる境地を行く兵共… どっかのエピクロス派みたいに息を潜めて生きていたりしないだろうか)

つまりは
約2400年越しに、さよならプラトン
である。私の頭の中で。

教科書で最初読んだ時はたまげたな、何コイツ!? って。散々苦しめてくれたな、お?(燃堂力)

(こんなことは恐らく何百年も前に偉い哲学者に解明され、説明され尽くされていることだろう。
しかし、あくまでも「私の頭の中で」だ。
私がそのことに到達したのはまさに今で、それ以前は私は文字通り、なにも知らなかったし、気づけていなかったのだから、存在していなかったのと同じだ)

アプリオリな、絶対的なイデア… それがあるに越したことはない、というのも正直なところではある。争いは減りそう。でも残念ながら私たちは、そう単純には出来ていないということだ。

歌下手アイドルの存在を迎え入れる。
そしてまたひとつ前に進んで行ける。

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