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【創作大賞2023】さらぬわかれ 3

 帰り道、栄子はなんとなく「あの木」のある丘の前を通ってみることにした。
 恒太が言った「また明日」という言葉が無敵な気持ちにさせたのかもしれない。
 あるいは、桜の木が栄子を呼んだのかもしれない。
 今日は、「あの出来事」からちょうど8年なのだから。

 相変わらず、その場所は人気がなかった。
 実は、栄子は姉の桂が倒れてからすぐの頃、何回かこの丘に登って木に触ったことがある。
 自分が触ることで、「何か」が起こることを期待していた。
 それは、「桂が目覚める」ことであったり、自暴自棄になっていた頃は「自分も倒れる」ことであった。

 しかし、栄子がいくら木に触っても何も起こらなかった。そのうち失望して、わざわざこの木に近づくことはなくなっていった。

 栄子が異変に気付いたのは、桜の木に近付いた時だった。
「あれ?夜なのに木がはっきり見える」
 丘の下の方には歩道があって、そこには電灯がともっているのだが、桜の近くには祟りを怖れて人が近付かないゆえに灯りなどはない。
 
 天気は良いが、月もない。どうやら、桜の木自体がほの暗い光を放っているようだった。

(どうする?触る?それとも、ここから引き返す?)

 ここで木に触れて、桂みたいに意識がなくなったら、恒太とのささやかな約束を破ることになる。
 引き返したら、桂のために出来ることをしなかったことで、一生後悔するかもしれない。

 自問自答の末、栄子は桜の木に触れることにした。

 おそるおそる手を伸ばして触れた木は、人肌のような温もりを感じた。

(とくん、とくん……)
 木が「脈」を打つのを感じる。

 やがて、木を包んでいた光は栄子の目の前でゆっくり人の形になっていった。
 ぼんやりした像が、はっきりしてきた。その姿は、桂ではなかった。

 桜色の帯、白い着物の若い女性である。結いあげられていない長い髪が夜風に揺れている。

(もしかして、伝承の心中した人?)
と栄子は思った。

 桜の木から現れた女性と目が合った。しかし、幽霊と対面しているのに、不思議と怖いとは思わなかった。
 むしろ懐かしささえ感じた。伝承が確かなら、目の前にいるのは、会ったことがあるはずのない、江戸の頃の人なのに……

 栄子が声を出せずにいると、彼女が口を開いた。
 その言葉は意外なものだった。一瞬、栄子は自分の耳を疑ったぐらいだ。
「──えいこ」
 それは、自分の名前だった。
「何で、私の名前を知っているの?」
 栄子は思わず彼女に詰め寄った。触れようとした体は、通り抜けてしまった。

「私は……」
 淋しげな微笑みをたたえながら、彼女は答えた。
「私の名は、『さくら』。『池上 桂』の前世の魂……」

「…か、桂お姉ちゃん?」
 さくらと名乗る女性の幽霊の言うことは信じがたかった。

(もしかしたら、私を騙して祟ろうとしているのかも)
 
栄子が思っていたことが伝わったらしい。
「栄子には何も起こらないわ。『何か』が起こった人は、この桜の木に危害を加えたから」
とさくらは言った。

 栄子には、彼女が嘘をついているようには見えなかった。
「じゃあ、お姉ちゃんは?お姉ちゃんは、この木に触っただけなのに!」
 納得出来ないという栄子の表情を見て、さくらが重々しく口を開いた。
「『桂』……というより、『私』が悪いの。私がこの木の下で死んでから、桜の木に歪んだ力が生まれてしまったの。私が桂として生まれ変わっても、魂の一部はこの木に縛られていた。栄子の目の前で倒れたときは、きっかけがあって、私の魂だけでなく桂の魂まで捕り込まれてしまった……」
 さくらはそう言うと、泣き出してしまった。さくらの像がぼやけ始めた。

「ちょっと……待って!」
 栄子は叫んだ。とっさにさくらの手を掴もうとしたが、空を切っただけであった。

「私は今度の満月までは、姿を現すことができる。それを過ぎたら、もう──」
 さくらはそう言い残して、消えてしまった。

 あたりは何事もなかったかのように、再び闇に包まれた。
 栄子は思わず自分の頬を力いっぱいつねった。
「痛い……」
 どうやら、さっき起こったことは現実らしい。
 さくらの言うことが本当ならば、桂はこの木に魂を奪われてしまったということになる。

「なんとか、お姉ちゃんを救い出せないのかな……」
 栄子はしばらくの間考えたが、何も思いつかなかった。

 さくらが消える前に言ったことが本当ならば、彼女は明日も姿を現すだろう。
 栄子は自宅に帰ることにした。

 玄関の鍵を開けると、そこはいつも通りの闇が立ち込めていた。
 しかし、いつもと違って肉じゃがの匂いがかすかに残っていた。
「今日の夕飯は、恒太と食べたんだっけ……」
 今日はいろんなことがあって、同じ日に起こったこととは思えなかった。

 栄子は桂に今日あった出来事を話しかけた。
「お姉ちゃん、幽霊って本当にいるんだよ。あの木の下で会ったんだ」
 姉の手を握ると、いつもより温もりを感じた。
「その幽霊はお姉ちゃんの前世なんだって…本当かな?」
 姉からの返事はない。もしも本当だとしたら、目の前の姉は「抜け殻」ということである。
しかし、姉が倒れた原因が分かったことで希望を感じた。

「もしかしたら、お姉ちゃんを助けてあげられるかもしれない」
 ぽつりぽつり話しかけた後、栄子は床に就いた。

#創作大賞2023


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