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昭和35年 アメリカ文化の街、福生で見たクリスマス、ハロウィーン

東京オリンピックを控えた昭和35(1960)年、私の父が原宿に開いたおもちゃ屋「さくらトイス」は、横田基地の目の前である福生市、国道16号線沿いへ移転オープンしました。
 
福生と言えば、基地の外にも「アメリカンハウス」が多く、アメリカさながらのお店が並ぶことで有名な地域ですね。
アメリカンハウスは、かつての米軍居住地でしたが、駐在兵の減少後は日本人が住むようになり、小説家の村上龍さん、ミュージシャンの大滝詠一さんなど数々のアーティストが暮らしてたことでも知られています。
 
横田基地の真ん前にあったさくらトイスも、私の日常も、アメリカ文化の影響を受けていました。
例えば、9月から始まる盛大なクリスマスシーズン、ハロウィーン、よく遊んでいたお隣の女の子もアメリカ人でした。
 
今回は、昭和30年代、福生に移転オープンした頃のお話です。

■昭和35(1960)年、福生へ移転オープン

昭和39(1964)年のビッグイベントと言えば、東京オリンピックです。開催が決まると、ワシントンハイツが返還され、オリンピックの選手村となることが決まりました。
ワシントンハイツのアメリカ人たちを主なお客様としていたさくらトイスにとっては、大きな転機となりました。おもちゃを買ってくれる米軍ファミリーがいなくなるため、移転を検討。いくつかある米軍基地のうち、最も滑走路が長く東京に近い横田基地なら、当分なくならないだろうと考え、福生の横田基地の前の国道16号沿いに、大型店を作ることにしました。広さは100坪です。
当時、日本のおもちゃ屋は20坪程度で、「成功するはずない」と同業者に言われたそうです。
 
福生でも、メインのお客は基地とその周辺に住む米軍ファミリーでした。
そんな立地環境から、一番の稼ぎ時は、やはりクリスマスでした。

■日本とは桁違い、基地のクリスマス

クリスマスシーズンは9月から始まっていました。
当時、日本からアメリカ本土に送るクリスマスギフトは、9月・10月は輸送費が無料でした。そのため、本国の親戚や知り合い、孤児院などに寄付するクリスマスプレゼントが売れました。
その後、11月には日本にある基地同士(三沢・厚木など)のパーティがありました。そしていよいよ12月は横田基地内、そして家庭内のクリスマスパーティと続きました。
 
クリスマスにかけるアメリカ人のエネルギ-は、日本人とは桁違いですね。
 
プレゼントのおもちゃはもちろんのこと、クリスマスオーナメントも売れていました。特に売れたのがツリートップの星・ツリーの根元を飾るスカート・シルクボール(球に絹糸を巻いて色々な柄がある)・イルミネーションなどです。
 
アメリカ人は本来手作りの品をプレゼントするのが理想のようです。そのため買った品物をプレゼントする場合は、自分で工夫を凝らしたラッピングをします。また、カードを書いて、相手に気持ちを伝える慣わしがあります。
そのため、店で販売するおもちゃは包装無しでOKです。そのうえ包装紙・リボン・リボンに付ける飾り・カードなどもよく売れました。
 
お客様が購入した段ボールいっぱいのおもちゃは、必要になるまで店の裏の倉庫に預かっていました。クリスマスイブの24日までは倉庫も事務所も預かったおもちゃでいっぱいでした。店横の数台の車が置ける駐車場のほか、国道16号沿いに車を置けるので、イブになると皆が車で段ボールいっぱいのおもちゃを取りに来ました。

■ハロウィーンなどアメリカ文化が身近にあった子ども時代

クリスマスシーズン途中の10月末にはハロウィーンもあり、かぼちゃの提灯や紙製のガイコツなどの飾りもよく売れていました。ちなみに、さくらトイスではおもちゃ以外のものも売っていて、4月のイースター(復活祭)には生きているひよこ、夏場にはカメを売っていたこともあるんですよ。
 
この頃の横田基地は基地内の住宅だけでは家が足りず、基地周辺にはアメリカンハウスと呼ばれる庭付きの一軒家がたくさん建っていました。
ハロウィーン当日は、店から1㎞ほど離れた我が家周りにも、アメリカンハウスがたくさん建っていたので近所に住んでいるアメリカ人の子どもたちが仮装してお菓子をもらいにやってきました。
我が家でももちろんお菓子を用意して子どもたちに配っていました。また、私もその一行に加わって、他の家にお菓子をもらいにいったこともありました。
でも、仮装の用意をしていなかったので、着物姿で加わったことを覚えています。

まだ原宿店の頃ですが、着物姿の写真がありました

■遊びに言葉はいらない!マージョリーちゃんとの思い出

この頃、私がよく一緒に遊んでいたのが、お隣に住む米軍一家の女の子、マージョリーちゃんでした。私より1つ年下、お母さんは日本人でした。
彼女は日本語がわからず、私は英語がほとんどわからず、使っていた単語は「ユー」と「ミー」だけ。それでも不思議と遊びは成立していました。
お人形遊びが多かった記憶があります。私は彼女が持っていたしゃれたドレスのお人形が物珍しく、マージョリーちゃんは私の着物姿の人形に興味があったようです。交換して遊んだりもしました。

マージョリーちゃんの家に行くとおもちゃのピアノがありました。それは、白くて花の絵が描いてあり、長い脚が付いていて、お揃いのイスもありました。うちの店で売っているおもちゃのピアノは、卓上に置くような形で、大違い。子どもなりに文化の違いを感じました。

また、マージョリーちゃんのお母さんお手製のおやつとして、カップケーキや、きれいなアイシングのかかったクッキーなどもよく覚えています。クリスマスシーズンには、ツリーやリースの形をしたクッキーを焼いて、お裾分けしてくれました。
マージョリーちゃん一家は、私が小学校2年くらいのときに帰国してしまいましたが、私の母とマージョリーちゃんのお母さんとは、ずっと手紙のやり取りが続いていたそうです。生前母が話していました。

■基地内のバザーとオリンピック景気で、売上1億円を達成

原宿以来続いていた基地内のバザーも好調で、横田以外もグランドハイツ(練馬)・ジョンソン(入間)・府中・座間、時には三沢まで泊まりで出掛けて行ったそうです。近場は前日に用意して朝4時に起きて出かけ、帰りは8時過ぎになりましたが、売上も大きかったと父から聞きました。
オープンから順調に売り上げを伸ばしたさくらトイスは、オリンピック景気も重なり、売り上げは1億円を超えるまでの大成功となったのです。


昭和27年から平成19年までの55年間、東京・埼玉・神奈川・千葉・茨城の各地に34店舗を構えていたおもちゃ屋「さくらトイス」の2代目社長を務めた私が、おもちゃ屋の思い出話、懐かしいおもちゃのことをつづっていきます。毎月11日に公開予定ですので、続きをお楽しみに!

また、「さくらトイス」のことを覚えている方、ぜひコメントをくださいね。

編集協力:小窓舎

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