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55年続いたおもちゃ屋を閉店するまで1.おもちゃ業界の暗雲

この連載では、私の父が昭和27年に創業し、私が二代目社長を務めたおもちゃ屋「さくらトイス」の歩みをお話ししています。
終戦後の焼け野原だった東京で創業し、高度経済成長期を経て、首都圏各地に34店舗を構えていたさくらトイスですが、私が社長に就任してから約10年後、全店を閉店しました。
 
理由は、一言でいえば時代の変化により、おもちゃ専門店としての商売が難しくなっていったからです。これは、おもちゃ業界に限らず、戦後から平成にかけての社会の変化にそのまま重なるのではないかと思います。
今回から3回にわたって、閉店に至るまで、おもちゃ業界でどんなことがあったのか、小売店の社長としてどんなことを考えたのかをお話したいと思います。
 
今回は、おもちゃ業界の変化について、その渦中にいた私なりにご紹介します。


戦後40年「不況知らず」だったおもちゃ業界

この連載でも触れたことがありますが、そもそも昭和初期から、日本のおもちゃ産業は右肩上がりで、輸出も盛んでした。
第2次世界大戦前には、日本おもちゃの生産量がドイツを抜いて世界一となりましたが、戦争で生産中止となりました。

そして戦後、外貨を稼ぐため国策でおもちゃの生産が復活します。輸出が増え、再び世界一の生産国となりました。

輸出が一段落すると、国内でも戦後の人口を多くするためのスローガン「産めよ増やせよ」と子どもの数がどんどん増え、おもちゃ業界は戦後の不況も乗り越えて発展していきました。

私が小学生だった昭和40年代、父は何度かの不況の度に「今年のクリスマスが売れなかったら倒産するかもしれない」と母に話していました。
しかし世間の親たちは不況で生活が困難でも、子どもたちにはおもちゃを買い与えてくれました。
お陰様でおもちゃ業界は「不況知らず」でした。

販売価格の面でも、小売店は「暗黙の了解」として、皆で標準価格を守ってきたので、三層(メーカー・問屋・小売)が全て儲かっていました。研究開発も進んで、新しい画期的なおもちゃがどんどん発売されました。

父は私に「おもちゃ業界は他の業界の先を進んでいて、まずおもちゃができてから、実用品ができることもあるのだよ」と話してくれました。
実際マブチモーターはおもちゃを動かす為の小型モーターを開発したことから、今では世界のマブチモーターになっています。

おもちゃ業界は戦後約40年間伸び続け安泰な業界でした。

おもちゃ業界の暗雲【異業種からの参入・トイザらス】

そんなおもちゃ業界ですが、戦後40年経つ頃から段々黒い影が忍び寄ってきました。

昭和60(1985)年にハローマック(靴のチヨダ)とBANBAN(靴のマルトミ)が、異業界から玩具業界へ本格参入して、ロードサイドに大きなおもちゃ屋を開きました。
翌年にはポップゾーン(つり具の上州屋)も、ロードサイドに展開してきました。

平成元(1989)年には、日本玩具協会の中にVANシステム「TOYNES」が発足して、良くも悪くも業界の情報が他業界に知れ渡り、異業界参入が本格的に始まりました。
このお話は、こちらの記事にも書いています。

またその頃、量販店が玩具売場をテナントではなく自前で作り始めました。もちろんダイエーも自社の玩具売場を作り始めました。
わが社ではダイエーに八王子・戸塚・南越谷・所沢と4店舗があったため、ダイエー内に二つのおもちゃ売り場ができてしまいました。
お客様に店長たちが「同じダイエーで何故値段が違うんだ!」と叱られたという報告がありました。もちろん父はダイエー本部に抗議し「店子いじめをするな」と言っていましたが、巨大なダイエーには通じませんでした。
この年に私は副社長になりました。

平成2(1990)年、アメリカのトイザらスが上陸することになります。
量販店が自社で売り場を作ることに加え、トイザらス進出によって玩具小売店が危機を感じ始め「日本玩具専門店会」が誕生しました。大型小売店の大量仕入れに対して、小売店が集まり大量仕入れを行う等の対抗策を協議しました。
父はその日本玩具専門店会の副会長になりました。

平成3(1991)年12月、茨城・荒川沖にトイザらス1号店がオープンし、翌92年1月、2号店(奈良・橿原)のオープニングセレモニーには当時アメリカ大統領だったブッシュ氏が来店し、トイザらスの名前が多くの人に知られました。
 
今回、トイザらス1号店がオープンした時の業界紙「トイジャーナル」を改めて見てみましたが、かなり大きく取り扱われていました。
写真をいくつかご紹介します。

広い売り場、大型玩具もたくさん並んでいます
画像は「トイジャーナル」92年1月号よりお借りしました

おもちゃ業界の暗雲【価格破壊とネット販売の時代に】

平成5(1993)年末に、関西の百貨店が初めて玩具ディスカウント販売に参入。
「売価を崩さない百貨店が安売りするなんて・・・!」とビックリしました。

平成8(1996)年には、トイザらスが50店舗達成。わずか5年で50店舗も出店したアメリカ会社の底力を感じました。
私はこの年に社長になりました。

平成10(1998)年ごろ、トイザらス、ジャスコ、チヨダが「玩具+ベビー+子供服」の子供総合売場を展開し始めました。

平成11(1999)年、玩具業界の大手企業(バンダイ・タカラ・トミー・エポック・ハピネット・トイカード)とソフトバンク・ヤフーで「イーショッピングトイス」が発足。
おもちゃのネット販売を始めました。

平成12(2000)年、トイザらスが100店舗を達成しました。

平成14(2002)年、じわじわと玩具売場を作ってきた家電量販店が売り場を拡大し始め、とうとう本格的な価格競争になり始めました。

家電量販店では、標準価格の3~4割引で販売しています。
私たちは普通、問屋さんから65%で仕入れます(一般玩具の場合。ゲーム類などは掛率が違います)ので、仕入れ価格と同じということです。これでは太刀打ちできません。

平成15(2003)年、アメリカで有名な玩具小売店FAOシュワルツが破綻しました。原因はトイザらスやウォールマートなどの安売りと言われています。FAOシュワルツは、トイザらスの傘下となりました。
しかし、そのトイザらスも平成17(2005)年に破綻してしまいます。

平成16(2004)年、アマゾンジャパンが玩具通信販売を開始しました。日本の「イーショッピングトイス」はうまくいかず、ハピネットの子会社となりました。
その後ハピネットのネットショップは、ハピネットオンラインと名前を変えて、今も運営しています。
そして、いよいよ少子化や価格破壊の波が小売店だけではなく、メーカーにも近づいてきました。

平成17(2005)年、バンダイとナムコが統合。

平成18(2006)年、タカラとトミーが統合。この年メキシコ生まれの子どもの職業体験キッザニアがオープンします。

平成19(2007)年、ハローマック(チヨダの玩具部門)をラスコム(北海道玩具問屋)に売却。
この年アンパンマンこどもミュージアムが横浜にオープンしました。

そしてこの年、さくらトイスは閉店します。


今回は戦後からさくらトイスを閉めるまでの玩具業界の動きを追ってみました。
次回は閉店の経緯、不振の原因をお話します。


昭和27年から平成19年までの55年間、東京・埼玉・神奈川・千葉・茨城の各地に34店舗を構えていたおもちゃ屋「さくらトイス」の2代目社長を務めた私が、おもちゃ屋の思い出話、懐かしいおもちゃのことをつづっていきます。毎月11日に公開予定ですので、続きをお楽しみに!

また「さくらトイス」のことを覚えている方、ぜひコメントをくださいね。

編集協力:小窓舎

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